よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」5

田中啓文Hirofumi Tanaka

「塵芥(ごみ)がなにをほざく」
「塵芥でけっこう」
 左母二郎は中山出雲守の顔面をいきなり拳で殴った。
「てめえを斬ったりしたら刀が穢(けが)れらあ」
「やめぬか! わしをだれだと思うておる。畏(おそ)れ多くも大坂町奉行中山出雲守であるぞ。下郎、下がれ!」
「ほら、見ねえな。世直しだなんだと言ってもよ、とどのつまりはお上(かみ)のご威光を振りかざすだけじゃねえか。そんな世直し、だれも喜ばねえよ」
 中山出雲守が刀を抜こうとした瞬間、犬田小文吾が諸手(もろて)で中山の胸を突いた。中山出雲守はきれいな弧を描いて空中を飛び、西横堀に落ちた。
「大晦日の川んなかは冷てえだろうな。――行こうぜ」
 左母二郎は並四郎と小文吾にそう言うと、あとをも見ずに歩き出した。
「助けてくれっ」
 という叫びに、飛車さんと歩兵さんがあわてて川に下りていった。

 夜になって隠れ家に戻ってきた三人は、犬小屋に灯りが灯(とも)っているのに気づいた。なかに入ると、丶大法師(ちゅだいほうし)が見慣れぬ僧侶とともに土間に茣蓙(ござ)を敷いて座っていた。僧侶のまえには簡易な護摩壇(ごまだん)がしつらえてあり、火が燃えている。僧侶は数珠を揉(も)みながら一心に呪文のような言葉を唱えている。左母二郎がなにか言おうとすると、丶大法師が「しっ」とそれを止めた。左母二郎は小文吾に小声で、
「だれでえ、こいつ」
「駿河台成満院(するがだいじょうまんいん)の隆光(りゅうこう)大僧正にあらせられる。どうしても江戸からでは遠すぎて大坂のことが見通せぬ。それゆえこうして伏姫(ふせひめ)さまの居所を祈禱(きとう)によって探り出すため、お忍びで参られたのじゃ」
「ふーん……」
 隆光の祈りの声は次第に大きくなっていき、それにつれて護摩壇の火が生きもののように踊りはじめた。
「なんの手妻(てづま)だ、こいつぁ。火事にならなきゃいいが……」
 左母二郎がつぶやいたとき、
「オン・ボロン・ソワカ・オン・アミリタ・アユダディ・ソワカ……尊勝仏頂よ、伏姫さまの居場所を教えよ! 大坂のいずれにおられるのか、我に示せ!」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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