連載
「まぼろしの維新」
第三章 怨恨の道程 津本 陽 Yo Tsumoto
 島津久光の母由羅(ゆら)は、江戸高輪の船宿の娘、麹町番町の八百屋善平の娘、三田四国町の大工・工藤左衛門の娘など、出自、生年に諸説がある。
 彼女は文化十四年(一八一七)十月に久光を生み、慶応二年(一八六六)十二月に亡くなった。
 島津斉彬(なりあきら)は曽祖父重豪(しげひで)の影響を受け、蘭学に長じ欧米強国による植民地獲得の激化の状況を詳しく知っていた。十九歳のとき、諸大名のあいだで英明の才をうたわれ、つぎのような評判が立った。
「幕府公儀をはじめ諸大名家では噂がたかい。斉彬殿は大大名を相続させるには惜しい人物である。
 彼を小身の大名といたし御老中として、天下の国政をつかさどらせたいものだ」
 彼は水戸の徳川斉昭(なりあき)、越前松平慶永(よしなが)、土佐山内容堂(ようどう)、宇和島伊達宗城(むねなり)、肥前鍋島閑叟(かんそう)、尾張徳川慶勝(よしかつ)ら賢侯といわれる大名と親交をむすび、老中阿部正弘との交流も深かった。
 島津家代々の相続は早かった。斉彬の曽祖父重豪は九歳、祖父斉宣(なりのぶ)は十三歳、父斉興(なりおき)は十九歳で藩主となった。だが斉彬はいっこうに相続できない。
 老中阿部正弘は斉興の腹心でお由羅派を率いる家老、調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん)を呼びだし、琉球密貿易の疑いで取調べた。調所は江戸桜田藩邸で服毒自殺をした。
 斉彬を押したてる諸臣は、これで斉興が隠居して、斉彬に相続させることになるとよろこんだが、斉興は引退しなかった。
 斉彬は国元の腹心の重臣たちに書状を送った。
「子供たちのことがはなはだ気がかりである。姦女由羅が退散するよう、早く工夫をしてほしい」
 斉彬の嫡子菊三郎、長女澄姫、次女邦姫は文政、天保年間、生後一ヵ月から三歳までのあいだに夭逝した。
 次男寛之助は嘉永元年(一八四八)、二歳九ヵ月で世を去る。四男篤之助は翌年生後七ヵ月であとを追う。
 このような不運はめったにあることではない。オランダ商館付のドイツ人医師フォン・シィボルトと交流がありヨーロッパ文明にあかるい斉彬であったが、お由羅が修験者の祈祷によって彼の子供たちをあいついで死なせていると、考えるようになった。
 嘉永元年(一八四八)十月、斉彬は鹿児島にいる腹心の家臣たちに、由羅が人形を京都でつくらせたのはたしかであるので、容易ならないことであるから気をつけよと書状で知らせている。
 斉彬は由羅のおこなう修験道の呪詛、調伏の形跡を探索させた。その結果、病死した次男寛之助の臥(ふ)していた座敷の床下から紙に包んだ人形が発見され、上包みの書付に記された文字が、お由羅に仕える兵道家(ひょうどうか)牧仲太郎(まきなかたろう)のものに違いないとわかった。
 斉彬の家来たちは毎朝斉彬の身を護る加持祈祷をしている。昼と夜にはお由羅調伏の祈祷をおこなう。またお由羅の座敷の下に彼女を呪詛する物を埋めた。


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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府