連載
「まぼろしの維新」
第四章 風浪のとき 津本 陽 Yo Tsumoto
 明治五年十一月二十八日、徴兵令が告諭された。国家が国民に兵役の義務を課す制度である。軍隊を常設し必要な兵を毎年徴集して訓練をおこない、一定期間をおき新兵と交代させ予備役として非常時の徴募にそなえるのである。
 西郷隆盛が筆頭参議として、岩倉全権使節団出発のあとをうけた内閣は活発な人事対策で、在野の人材をうけいれ、近代国家としてのあらたな措置をあいついで実施していた。
 隆盛は家禄を失ってゆく士族の生活方針を気づかっていたので、庶民を兵とすれば士族の前途がいっそう暗くなると気遣い、陸軍大輔山県有朋らに配慮させた。
「庶民は兵として士族は士官とせよ」
 十一月二十二日には太陰暦を廃止し、太陽暦にして十二月三日を明治六年一月一日とした。ついで一月十三日には七分利付外債二百四十万ポンドを、士族の秩禄償還費用としてロンドンで募集する。
 二月十五日に男女六歳以上の小学校就学を規定した。三月十四日には外国人との結婚を許し、八月一日には第一国立銀行の設立開業と、日本の近代化のための政策をすみやかに実施してゆく。
 岩倉大使ら一行が外遊したのちの政府を動かす首長は三条実美であったが、彼は格式を充分にそなえた人物だとしても、実力は乏しい元公卿である。
 実力をそなえているのは参議の西郷隆盛である。だが隆盛は行政官僚を指揮して政務を処理してゆくには、あまりにも大器に過ぎて小回りがきかない。
 板垣退助は政論を説くのを好むが、実務に適した才能はなかった。山県は陸軍の機構充実のため多忙をきわめていた。井上馨は財政担当者としてあまりにも敵が多かった。
 外遊する岩倉、木戸、大久保が、留守内閣のあとをとりわけ頼んだのが大隈重信であった。
 行政上の公務に金の割りふりがからんでくる、繁雑きわまりない部門の細かい裁断は、大隈のほかにできる者がいないというのである。
 結局大隈は留守内閣の政務をすべてひとりで切りまわした。大木喬任(たかとう)民部卿、江藤新平司法卿が予算問題で井上大蔵大輔と論戦をくりひろげるとき、紛議を解消させるよう双方の意見を導いてゆくのが大隈の役目であった。 
 大木、江藤、大隈はともに肥前佐賀藩出身で、学識、才能ともにすぐれている。外務卿副島種臣(そえじまたねおみ)を加え、佐賀県の四本柱といわれていた。
 旧幕時代は長崎に近い地の利を生かし、外国文化の吸収につとめ、薩摩藩より早く反射炉を築いた。
 人材のうえでは板垣、後藤象二郎のいる土佐高知県に匹敵する。幕府を壊滅させ維新を成功させたのは薩長と、彼らに協力した土肥であった。
 土佐と肥前は薩長についで武功をたて、どちらも豊富な戦力をそなえている。 
 新政府は諸藩の人材を採用した。幕府のあとをうけ国政をおこなうために、旧幕臣も多数任官させた。
 だがもっとも重要な役職は薩長がおさえた。全国諸県士族は薩長のそんな措置に反対の声をあげるほどの実力はない。猛獣が仕留めた獲物のもっとも美味な部分をむさぼり食うのを見ても、黙視するしかなかった。


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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府