連載
「まぼろしの維新」
第七章 炎の気配 津本 陽 Yo Tsumoto

 佐賀の乱は、首脳の江藤新平が鹿児島へ逃走したのちも、佐賀県士族は善戦し、明治七年二月十六日から二週間戦って三月一日に抵抗をやめた。
 官軍の死傷者は三百五十八人、叛乱軍死傷者は三百三十三人、ほぼ互角の勝負であった。江藤新平は同行してきた石井貞興と徳久恒敏という二人の青年を桐野利秋に預けたのち、宇奈木(うなぎ)温泉から伊予八幡浜へ海路をとって逃げたが、三月二十九日、高知県安芸市甲浦(かんのうら)で県吏に捕えられ、四月十三日に斬刑に処せられた。
 これまで政府では西郷隆盛以下の薩摩閥が木戸孝允、山県有朋らの率いる長州閥をおさえ、陸軍、警察の実権を掌握していたので、西郷とともに官職を辞退、帰郷したおびただしい人材は、県下の各郡まで堅固な行政組織を築きあげた。
 一方、東京に残留する者は、大久保利通を中心として団結し、全国士族をおさえる実力をそなえている。征韓論にやぶれ帰県した隆盛と行動をともにして帰郷した者は、政府の施政に従わず、鹿児島県が完全な独立国であると見られるほどの、郡、町、村の支配にかかわった。

 隆盛は鹿児島に帰郷してのち、全県下士民の父のような存在として信頼を集めていた。大山綱良(つなよし)県令は、隆盛の意見を代行する番頭のようなものである。
 隆盛は吉野開墾社で鍬をふるい、私学校の会議に出席し、温泉に滞在し犬の一群を率いて銃猟をする。
 だが、隆盛を国政の中心に引き戻そうとする動きと、彼の力によって明治政府の大久保らを倒そうとする動きが、全国で強い潮流のように渦巻き流れていた。
 隆盛を政府へ戻そうとするのは、近衛兵の中軸となっている鹿児島城下士族である。警視庁の警察権を完全に掌握している鹿児島外城(とじょう)士族は城下士族の隆盛を恩人と思ってはいるが、鹿児島へ帰る気はなかった。
 江藤新平、林有造らは大久保、岩倉らの現内閣を打倒し、国政を一新するため隆盛の決起を望む、政府顛覆派であった。
 全国士族の間に、反政府の風潮が高まり、世情不穏の気配は高まってきていた。
 明治八年十月、左大臣島津久光が礼式復旧、税制改革を建言したが用いられず辞職。参議板垣退助が、国会開設と参議・省庁長官を分離する建言をおこなったが退けられ辞職。
 明治九年三月、木戸孝允が病気を理由に参議を退いたので、政府は大久保利通の専制体制により動くことになった。
 同年十月二十四日夜、熊本敬神党太田黒伴雄(ともお)に従う右翼士族「神風連」が、廃刀令など士族を圧迫する政府方針に反対して暴動をおこし、県庁、鎮台を襲撃して熊本鎮台司令長官、県令ら七十人を殺害、二百余を負傷させたが、翌二十五日、総勢百七十五人と小規模であった叛乱軍は、まったく火力をそなえていなかったので、あっけなく潰滅した。
 二日後の十月二十七日、筑前秋月士族二百人が決起し、長州萩では前参議、兵部大輔などの重職を歴任した前原一誠の率いる二百人の壮士が挙兵したが、前者は小倉鎮台に包囲され潰滅、前原は二百人の士族とともに七月二十八日から五日間、広島鎮台の兵と戦い敗れ去った。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府