連載
「まぼろしの維新」
第八章 雷雲迫る 津本 陽 Yo Tsumoto

「私は藩士として賊臣であるとの罰をうけたため、先君斉彬(なりあきら)公に申し訳がなか。そのため薩摩藩のためにはたらいたのじゃ。
 このあとは引退して謹慎して生活する。それが先君の厚恩を忘れぬことになるからじゃ」
 だが、戊辰戦争のあと、戦場から帰還した下士と、藩を支配してきた上士のあいだで紛争がおこった。
 それを鎮圧できるのは国父島津久光でも大久保利通でもない。隆盛のほかにはいなかった。
 隆盛は明治二年一月、朝廷の出仕要請を辞したが、二月には薩摩藩主島津忠義(ただよし)が隆盛の狩猟先まで出向き、藩政協力を頼んだのでやむをえず参政として、藩の機構を一新した。
 そのため藩内の大領主の地位を剥奪し、二百石以上の上士の家禄を削減し、下士たちへの俸禄をふやし、軍隊の充実をはかった。
 彼の施政は久光の意向にそむくものであったが、隆盛の信望に頼らなければ内紛が収まらなかったので、彼は黙認せざるをえなかったのである。
 隆盛は大久保への手紙に内心を洩らした。
「久光公のご疑念を解くか、殺害されるかのどちらかであろうと、毎日死ぬ覚悟で奉公している」
 明治三年一月、隆盛は参政を辞任し藩政顧問となったが、七月には藩庁の要請をうけ藩大参事に就任した。さらに十月には弟西郷従道が帰郷し、政府への再出仕を求められたがうけいれなかった。
 だが十二月に大納言岩倉具視が鹿児島へきて、島津久光に隆盛再出仕を懇願したので、久光もうけいれざるを得なくなった。
 上京した隆盛は大久保、木戸孝允と協議して、東京に集結させた薩、長、土三藩の親兵隊の兵力で全国諸藩を制圧し、明治四年七月に「廃藩置県」を断行した。
 明治二年に「版籍奉還」をおこない、形式としては全国の土地、人民は天皇に奉還されていたが、依然として藩主が藩知事となり旧領を支配していた。
 その後、藩知事は東京府貫属の身分を与えられ、天皇政府が全国を直接支配する絶対主義制度が成立した。
 それを維持するためには徴兵制度を採用せねばならず、軍隊は士族のみで編成されるものではなくなり、士農工商すべての階級から徴募されることになった。
 生活の方途を削減される士族たちに要求されるのは、日本が文明国家となるため耐えねばならない窮乏生活であった。
 隆盛は彼らの前途を思えば、政府首脳として身を置くことが苦痛であった。その後、岩倉具視を特命全権大使とする国際不平等条約改正交渉使節団が派遣され、およそ一年八カ月にわたり、木戸、大久保、伊藤ら政府実力者が洋行した。
 隆盛が徴兵令をうけいれたのは、兵は庶民から徴募するが、士官は士族から採用すると山県有朋らに説得されたためであった。
 留守内閣には高知士族を代表する板垣退助、後藤象二郎、佐賀士族の副島種臣、江藤新平らの征韓論者がいた。韓国は日本が王政復古ののち、開国を要請しても拒絶してきた。交渉にはまったく応じないうえに、明治六年五月に釜山の日本公館に食糧購入を拒むほど、敵意をあらわにした。
 板垣、江藤らは軍隊をともない釜山に上陸して国交をひらく交渉をする方策をとろうという、「征韓論」を主張した。そうすることによって、政府の主導権を手中にしている大久保、木戸ら薩長閥を蹴落そうとたくらんだのである。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府