連載
「まぼろしの維新」
第八章 雷雲迫る 津本 陽 Yo Tsumoto

 隆盛は大久保のような策士ではない。全国の士族が活躍できる場を朝鮮に求めようとした。朝鮮と戦うのではなく、平和のうちに通商交流をおこないたいと望んだのである。
「私は兵を伴わず釜山におもむき、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)の礼葬をととのえ、談判をしよう。先方が開国に応じることなく、私を殺害したときは、ただちに出兵して無法を咎め戦えるではないか」
 隆盛は全国士族のためにわが身を捨てる覚悟をきめていた。
 だが彼が修好使節として派遣される内奏が終えられたとき、岩倉大使らが帰国して上奏した。
「西郷隆盛の遣韓使節は、にわかに派遣すべきではありません。情勢をよく判断したうえで、順序を追い裁可すべきであります」
 天皇は岩倉の上奏を嘉納され、朝鮮特使派遣が中止されることになった。
 隆盛は閣議で決定した遣韓使節派遣を、天皇から否定される情勢を知ると、岩倉の上奏が明治六年十月二十三日に裁可される以前に、辞表を提出した。
 岩倉が隆盛の辞表を受けるべきか決断できないのを見た大久保は、ただちに受けとり、参議、近衛都督を免職として陸軍大将を現職のままにすべきであると主張した。
 この結果、隆盛は辞任帰郷、板垣、江藤、副島、後藤の参議四人は、閣議で遣韓使節派遣をきめた責任をとり、隆盛のあとを追い辞任した。
 村田新八は帰郷して隆盛に会えば、このような事情をうちあけられると予測していた。そうなれば東京に戻り、政府の大官として国家の運営に尽力するよりも、隆盛と生死をともにして、余生を送ることを撰ぶのは眼に見えていた。そうする理由は隆盛と維新の難局を乗りこえてきた、記憶の鎖を断ち切ることができないためである。
 隆盛と行動をともにすれば、前途は政府施政の障害となり、破滅に向かうことになる。新八は従弟の高橋新吉が政府にとどまり、平穏な生涯を送ってほしかったので、彼を横浜から東京へ引き返させたという挿話が『西南記伝』に記載されている。
 隆盛は中原少警部らが鹿児島に帰郷したという情報を、明治九年十二月末に知ると、ただちに従者矢太郎と犬数匹を連れ、明治十年正月には大隅半島の南端に近い、錦江湾口の小根占(こねじめ)にいた。
 小根占は隆盛が好んだ兎狩りの猟場であった。帰郷ののちはじめて出向いたのは、明治八年旧三月節句のときで、五日間を狩猟に過ごした。
 二度めは明治九年旧正月で、このときは一カ月の長期滞在であった。三度めが明治十年正月で、十数日を過ごした。
 小根占での住居は郷士平瀬十助の家であった。十助は隆盛よりも五センチほど背が低かったが、肥満しており、無欲、朴訥で豪毅な性格であった。隆盛は彼と気が合うので平瀬宅を宿所ときめたのである。
 隆盛は晴天の日は好物の小みかんを入れた袋を腰に提げ、早朝から山中に入り、日暮れがたに帰ってくる。
 獲物は自分はあまり食べず村民たちに分け与える。山へ出向くときの服装は、中折れ帽子をかぶり、紺の筒袖のうえに分厚い胴着をつけ、村人がつくってくれる草鞋をはき、小鉈(こなた)を帯に差し、兎わなを首にかけていた。
 肥満しているが足がきわめて速く、従僕たちが息をきらせてようやくあとを追うほどであった。
 雨の日は終日読書と詩をつくり、書をしたためて過ごす。月の明るい夜は海に船を出し、烏賊(いか)を釣った。
 座敷では寝ころんでいることが多い。南国でも冬は冷えこむことが多かったが、寒気が身に沁みるときでも火鉢に手をかざすような姿を見ることはなく、大煙管に煙草を詰め、ゆっくりとすいながら何事か思案していた。



  3       10 次へ
 
〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府