連載
「まぼろしの維新」
第八章 雷雲迫る 津本 陽 Yo Tsumoto

 食事は飯を三杯ほど食べ、うるめ鰯の刺身を好み、たこは好きではなかった。水をよく呑みつつ、大きな字を書いているとき、隆盛を取りかこみ、見事な筆さばきを見ている村人たちが忍び笑いを洩らす。
 隆盛が「お前たちゃ、ないごて笑(わ)るか」と聞くと、彼の袴(はかま)の間からのぞいている大睾丸を指さし笑い崩れた。
 彼は村人に何事についてもていねいに応対した。日本にただ一人の陸軍大将である隆盛が、川で泳いでいた少年から何か書いてほしいと頼まれると平瀬家へ連れてゆき、墨をすらせ、裸体の少年が裸馬に乗った絵を描いて与えた。
 隆盛は全国士族の信望を集めるわが立場を離れ、「老夫遊猟残生をなぐさむ」の詩文の通り、山海の風光を楽しむ晩年を送りたいと願っていた。
 
 川路利良が鹿児島へさしむけた密偵三十余人の団長、警視庁少警部中原尚雄(ひさお)三十三歳が横浜から汽船に乗り、鹿児島県川内(せんだい)港に上陸したのは明治十年一月十日であった。
 彼は外城(とじょう)士族で城下士族と祭日に殴りあいの大喧嘩をひきおこしたことが、幾度となくあった。同行していた友人たちはそのため争いにまきこまれて迷惑したので、彼から離れてゆくようになった。
 暴れ者の中原の名は城下士族に聞えていた。彼が帰ってくれば、私学校党は彼を自由に動かさないのが当然なので、外出は危険きわまりない。
 彼は隆盛に対し敵意を抱いていなかった。かつて台湾出兵に参加し、東京警視庁に奉職したとき、隆盛に直接相談し便宜をはかってもらったことがあるので、日頃から公言していた。
「西郷さんは国の宝じゃ。皆でもりたてていかねばならん」
 だが城下士族に対しては強い怨恨を抱いていた。
 中原は伊集院の実家へ帰る途中、ゆきかう男から顔をのぞきこまれ、険しい視線を浴びた。洋服、外套に中折れ帽子をかぶっているので官憲だと見る者はいないが、地元の男とはちがう風態が目をひくのだろうと中原は思った。
 ―これまでにない気配じゃ。「評論新聞」あたりからなんぞ知らせが私学校に届いちょるかも知れん。こりゃ剣呑(けんのん)じゃ―
 中原はまず串木野の親戚長平八郎の家に立ち寄り、様子を聞くことにした。
「ここらじゃ私学校生徒にならん者は人間扱いはされんぞ。犬猫のように蹴飛ばされても何もできん。村八分にされちょるからな。外へ出りゃどこから石が飛んでくるかわからん。お前(は)んは警部と知られりゃただでは済まんぞ。外出はできるだけつつしんだほうがよか」
 中原は川路大警視の命令を満足に実行できる情況ではないと察した。
 彼はできるだけ現状を把握しようと、市来(いちき)の大久保規正宅を訪れた。大久保は去年まで警視庁中警部として勤務していたが、辞職帰郷しなければならない事情があり、実家に戻っていた。彼は涙をこぼしつつ語った。
「俺(おい)は警部をつとめた川路の犬じゃといわれ、郷中(ごじゅう)への出入りも絶たれた。いうてみりゃ島流しにされたような身上じゃ。東京へ手紙でこっちの様子を知らせることはできん。
 去年の夏から手紙は私学校で検閲されるとじゃ」
 中原は日が暮れたあと、闇にまぎれて伊集院の実家へ帰った。案の定、彼を迎える家族は久しぶりに逢った彼を笑顔で迎えなかった。近所に住む親戚が集まってきて東京の生活をいろいろと聞くのは、これまでの通りである。
 だがうちとけないこわばった顔つきを崩そうとせず、焼酎を飲む。そのうちに二人の親族が喚(わめ)きだした。
「尚雄、さっきから聞いちょりゃ、私学校に味方すりゃ難儀するなどといいよるが、汝(わい)が政府の密偵なら、俺(おい)どんが殺すぞ」
 中原は二人をとり静めようと、声をふりしぼっていう。
「俺は密偵でんなか。お前んらの心の迷いをはらしにきただけじゃ」
 中原は帰郷したが、家を一歩も出ることができない。彼を見た私学校の壮士は、白刃をふりかざして襲ってきかねないからであった。
 中原ら三十余人の鹿児島へ向かう警察官らは、東京を出発するとき川路大警視から箇条書にした長文の訓示を与えられていたことは、川路の個人秘書大山綱昌がのちに語っている。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府