連載
「まぼろしの維新」
第九章 出陣 津本 陽 Yo Tsumoto

 二月九日午後五時、高雄丸は鹿児島を離れ荒天のため、指宿、日向灘などに停泊、十二日に尾道から大阪に滞在している山県有朋、伊藤博文に、つぎの内容の電報を発信した。
「九日朝に鹿児島に入港しましたが、私学校生徒が高雄丸に侵入しようと小舟を寄せてくるので、上陸できません。
 大山県令と艦内で三度会いましたが、到底鎮定の話しあいができるような有様ではありません。薩摩へ航行する汽船を停めなさい。この電文を熊本鎮台へ通報し、警備を厳重にさせねばなりません。
 私学校党は、川路大警視が中原少警部に命じ、西郷大将を暗殺させようとした罪を問おうとしています」

 政府がなぜ隆盛を敵視するのか問責するのであれば、私学校の大軍を率いて東上する手段はいたずらに混乱を招くばかりである。
 それよりも隆盛と桐野、篠原ら首脳部が東京へ出向き、政府を詰問してその責を問うべきであるという意見をとなえたのは、陸軍中佐永山弥一郎であった。
 村田三介は、自分が中原少警部ら一味を護送出京し、事件の裁決を政府に迫るべきであると主張する。
 隆盛は内心では永山、村田らの意見を採るのが正当であるとわかっていたが、火薬庫を襲った生徒たちが国事犯として処刑されるのを、黙視できなかったので、彼らとともに決起しようと望んでいる。
 鹿児島警察署長野村忍介は私学校の会議の席上で述べた。
「川村どんが帰京すりゃ、政府は長崎、下関などの要地へ兵をつかわし守備させるじゃろ。私学校一万三千の壮士が、武器をたずさえ東上すっとなりゃ、政府は手を出さず見過がすっどかい。
 俺(おい)どもは攻められりゃ、そんまま引きさがれん。戦わざるをえん。そうなる前に備えを立てておかにゃなりもはんぞ。戦いは敵の虚をつかにゃならん。
 俺は京都にしばらくおりもしたので、山陽、山陰の人心が不穏なこつを知っちょい申す。敵は俺どもが上京するとなれば、きっと通路を妨げるでごあんそ」
 野村は彼の考案した戦略を述べた。それは戊辰戦争以来、薩軍部隊が成功してきた奇襲戦法であった。
「俺は敵の虚をつくため、壮士六百人を率い、船で日本海に出て若狭小浜に上陸。士民に暴動を呼びかけつつ一日で京都御所へ駆けこみ、鳳輦(ほうれん)を守護して西郷大将をご召見遊ばされるよう詔(みことのり)を請い奉りもんそ。
 そのうえで各鎮台に西郷大将東上の道をひらかせ、諸方に檄を飛ばし天下に号令すりゃ、大事はたちまち成功いたしもそ。
 俺ども六百人がすべて討たれても、京都で騒動がおこっちょる隙に、豊前(福岡県、大分県の一部)、小倉へ一万余の壮士が押し出せば、政府の兵を蹴散らすは疑いもなか」
 桐野、篠原は嘲笑した。
「政府尋問は戦(いっさ)でなか。こなたより戦端をひらくことは断じてならん。なんでさような権謀をはかるとか」
 野村は嘆いた。
「先生の道を、あん和郎(わろ)どもが誤らすのじゃ。大久保、岩倉が武力でさえぎるはあきらかじゃろがい」
 私学校党東上についてとるべき戦法は三つに分かれていた。西郷小兵衛らは長崎を急襲して軍艦、汽船を奪い、横浜に上陸して東京へ殺到する策をとっていた。
 第二は熊本城を小兵力で包囲し、鎮台の出撃をはばみ、残る兵力は大分から博多へ移動し、海峡を渡って下関へむかう。
 第三は全兵力で熊本城を攻撃し、九州全土を占領して、東上する。この作戦を桐野が主張して、大山県令、野村署長らと対立したが、隆盛から薩軍を統帥する全権を与えられていた桐野は、断固としてわが意見を押し通そうとした。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府