連載
「まぼろしの維新」
第九章 出陣 津本 陽 Yo Tsumoto

 明治四年陸軍少将に任ぜられた桐野は翌五年熊本鎮台司令長官に任命され、六年に陸軍裁判所所長に転任するまで熊本で在勤していた。その後五年間に民間から召集された鎮台兵の戦力がどれほど進歩したかを知らなかった桐野は、竹鞭で追いはらえば、蜘蛛の子を散らすように逃げ散ると豪語していた。
 鹿児島県士族の気質は荒々しく、明治期になっても侍のあいだで決闘がおこなわれるのは、めずらしくなかった。
 戊辰戦争から廃藩置県に至るまでの国政大改革は、西郷隆盛の威望があってはじめて成立したといわれる。桐野、篠原は隆盛に従い私学校生徒一万三千人を率い東上すれば、実戦経験のほとんどない鎮台兵に前途を阻まれて窮地に陥ることなど、まったく考えられない。
 しかし西郷小兵衛、永山弥一郎、野村忍介らは冷静に事態を判断していた。
 薩軍は全員が携行する小銃の弾丸は百五十万発、一挺につき百発程度である。銃撃戦となれば二日間で撃ちつくす。
 大砲は私学校が保管していた四斤山砲二十八門、十二斤野砲二門と臼砲三十門である。官軍はクルップ野砲ほか百門を超える装備であった。
 軍費として支度した現金はわずか二十五万円であった。のちに弾薬食糧の補給に困り西郷札(さいごうさつ)という紙幣を五十万円ほど発行したが、官軍が戦闘終結までに要した軍費四千百万円とは比較にならない。
 薩軍は服装もさまざまであったが、中折帽子をかぶる者が多かったという。東京に到着すれば墨田川堤で桜見物をするつもりでいた。
 鎮台兵は農民出身者がおおかたであるが、海陸総兵力は六万を超える。冷静に判断すればよほど慎重に行動しなければ、熊本、佐土原などの士族の応援をうけても大損害をこうむって当然の苦戦を強いられる。
 二月十四日、大山県令は隆盛の指示により東上について政府、各鎮台、府県庁への通達報告のため、使者を派遣した。京都に滞在する太政大臣三条実美にあてた届書はつぎのようなものであった。現代文で記す。
「西郷陸軍大将外二名上京につき御届けの事件を申しあげます。
 もと警視庁へ奉職していた警部中原尚雄、そのほか別紙に記名した者どもが帰省と称し帰県し、ひそかに国憲を犯さんとする密謀が発覚したので、政府御規則に従いその者どもを捕縛尋問しました。
 その結果はからずも犯人の供述は別紙の通りでありました。この事件を知った陸軍大将西郷隆盛、陸軍少将桐野利秋、陸軍少将篠原国幹ら三名が、今般政府へ尋問せねばならないことがあり、まもなく鹿児島を出発いたしますので、ご理解いただくため届け出を申しあげます。
 もっとも旧兵隊の者どもが随行のため、多数出発いたしますので、人民が動揺しないよう、手ぬかりなく一層の保護をお願いするため別紙の書面で届け出たので、県庁ではそれを受けつけました。
 本文と内容のおなじものを、もよりの各県、鎮台にも通知しました。
 また犯人のうち中原尚雄ら帰京の前、四カ月分乃至八カ月分の俸給を、警視庁より受けとったと申していますので、つけくわえます。
 明治十年二月十三日          鹿児島県令大山綱良
     太政大臣  三条実美殿    」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府