連載
「まぼろしの維新」
第九章 出陣 津本 陽 Yo Tsumoto

 かつて島津久光によって君命に背いたとして、沖永良部島へ遠島の刑に処されたのも、大久保の策謀によるものであったかと、昔の疑念がよみがえり、それまで迷っていた率兵上京実行の決意を固めたのである。
 隆盛は明治九年十一月、元薩摩藩筆頭家老であった桂久武(ひさたけ)に送った手紙に内心を隠さず語っている。現代文で記す。
「この三日間はめずらしく愉快な通報を得ました。去る十月二十八日、長州前原一誠、前越後府判事奥平謙輔らが石州口(島根県)から叛徒を率い突撃したようです。三十一日には徳山(山口県徳山市)辺りの志士も繰りだし、柳川(福岡県)辺りも同様の乱が起こっているそうです。
 熊本(神風連)の人数は船で行動していると、たしかに判明しました。これらの件については熊本の巡査二人が前原らの電報をもって協力を求めにきたので、相違ありません。
 今頃は大阪辺りは占領したのではないかと察せられます。
 因幡(鳥取県)、備前(岡山県)、石州あたりの士族はかならず決起するつもりで、十一月三日の天長節(天皇誕生日)を期日としていたところ、その前に前原らが動いたのです。
 天長節を期日としたのは、かならず東京に同志がいたためでしょう。それでなくては他府県の同志と同時に行動できません。
 前原はよほど広い範囲で兵を動かすつもりでしょう。こののち四方で蜂起するだろうと楽しんでいます。
 この通報を受けましたが、いまも日当山(ひなたやま)で狩りをしているので、急いで帰っては壮士らが騒ぎたてるだろうと推測して、私の挙動は他人に覚られないようにしています。天下が騒然としてきた今はなおさらです。
 いったん動けば、天下を驚嘆させるほどのことをしようと考えています。この旨あらましをお知らせいたします」
 明治九年十月二十四日に熊本神風連の乱、同二十七日に秋月の乱、二十八日に萩の乱が続いておこった。蜂起した士族たちは奮闘したが、各地方に蜂起がひろがり大阪も占領されるというのは夢想に過ぎず、たちまち撃滅されるに至った。
 隆盛は国税をほしいままに費消し、藩閥をつくり汚職のかぎりをつくす政府は、全国有志者が蜂起すれば、たやすく崩壊すると見ていたのである。
 桂久武は隆盛より二歳年下で、旧日置(ひおき)領主島津久風の五男である。隆盛の父吉兵衛は日置島津家の書役をしていたので、隆盛と久武は幼時からの旧友であった。
 慶応三年六月、薩摩藩が倒幕挙兵に踏みきったとき、藩重役はすべて反対したが、筆頭家老であった久武の決断により実現した。彼は明治三年には隆盛とともに藩権大参事として藩政改革にあたった。
 西南戦争では隆盛の依頼に応じ、大小荷駄隊隊長として軍資金の工面と募兵につとめ、弾薬製造所を監督したが、九月二十四日に隆盛とともに城山で戦死した人物である。隆盛が胸中の秘事をうちあけたのも、当然と思える親友であった。
 隆盛が書中に、いったん動いたときは天下を驚嘆させるほどのことをすると記しているのは、腐敗した政府を打倒するときが、かならずめぐってくると思っていたことを立証している。
 島津家家令であった市来(いちき)四郎の記録にも、隆盛が親交のあつい人々との交わりの席でつぎのように述べたと記している。
「海陸千辛苦楽栄誉ヲ極(きわ)メタリ。今後皇室ノ大事或ハ外難アルニ臨ミテ斃(たお)レンノ決心ナリト、語レリトナム」
 隆盛は全国士族の間に政府への不満が充満し、私学校生徒が蜂起する時期がしだいに迫っていることを知っていた。
 政府高官たちは汚職、贅沢三昧にふけりつつ、地租改正、家禄制度改正による、士族、農民の生活を脅かす施策は、とても甘受できない苛烈なものであった。
 熊本神風連、秋月、萩の乱がおこったのは、明治九年三月に廃刀令、八月に金禄(きんろく)公債証書発行条例が出されたためであった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府