連載
「まぼろしの維新」
第九章 出陣 津本 陽 Yo Tsumoto

 鹿児島県では全国で一県のみ家禄制度について、政府の指示に従わない独自の方針をとってきた。
 明治五年に知行(ちぎょう)制を廃止されたが、年貢米一石(ねんぐまいいちこく)につき三斗六合を支給することにした。旧藩時代の年貢は一石について三斗九升八合から郷費(ごうひ)一升一合と税八升一合を差引いたものであったので、明治六年十二月、政府が家禄税を設けても、それを県庁から支払ったので、士族の実収入はあまり変らなかった。
 ついで明治八年九月、家禄、賞典禄が金禄にあらためられたが、鹿児島県では米禄を続行し、明治九年八月まで士族の生活は旧藩時代と大差なく続けてゆけた。
 だが明治九年八月から家禄、賞典禄はすべて公債に改正されるとの通達が政府から発せられると、桂久武のような島津一族の血縁者でさえ、将来の生活に強い不安を持つようになっていた。

 明治十年二月十五日、大山県令は県属今藤宏(こんどうひろし)に命じ、西郷大将以下上京の趣意書を書かせ中原尚雄、野村綱の口供書とあわせ使者に、熊本鎮台に持参させた。趣意書はつぎの通りである。
「拙者儀今般政府へ尋問の廉(かど)有之(これあり)。明後十七日県下発程、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹及び旧兵隊の者随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を受けらるべく、此段御照会候也
 明治十年二月十五日                 陸軍大将 西郷隆盛
     熊本鎮台司令長官                     」
 この趣意書は隆盛があとで読み、いかにも非礼な文章であったので、その取り消しを今藤に命じたが、すでに熊本鎮台司令長官谷千城(たにたてき)少将に届けられていた。
 隆盛上京についての大山県令の布告が発表されると、東上に参加しようとする壮士は、私学校生徒のほかにも、日に幾千人とあらわれ、鹿児島市中の民家は、武装した壮士たちで充満した。
 二月十三日、市来四郎は日記にしるす。
「雪降りて地上真白、眺望よろし。此の冬は本日の雪をもって積るのはじめとす」
 この日、旧練兵場に集合した薩軍は隊伍編成をおこなった。歩兵五個大隊、砲兵二個小隊、輜重(しちょう)隊である。
 歩兵大隊は一番から五番までを区分した。一大隊を十個小隊として、小隊の人員は二百名である。小隊には衛生兵四名、ラッパ手一名、軍夫二十名を配属させ、軍夫も戦闘の際は戦えるよう帯刀させた。
 砲兵は一番砲隊、二番砲隊に分かち、隊士は約二百名。砲は開戦後追加した分をふくめ、四斥山砲二十八門、十二斥野砲二門、臼砲三十門を装備している。
 いずれも戊辰戦争に用いた旧式で、鎮台にくらべ火器弾薬の欠乏が歴然としていた。
 このほかに別府晋介が編成した独立一番大隊、二番大隊があった。加治木、国分付近の郷士の子弟で編成し、兵員は各七百名であった。ほかに輜重兵、軍夫を加え、総計一万三千人の大軍となった。
 二月十五日、雪はこの日も降りつづき、六、七寸から一尺余りも積り、五、六十年ぶりの大雪であった。この日に練兵場を出発したのは、一番大隊、二番大隊四千余名であった。午前六時に集合、同八時にラッパを吹き太鼓を叩き、西目、東目両街道に分かれ、北上していった。
 十六、十七両日も雪は降りしきった。隆盛は十七日、砲隊とともに練兵場から東目街道に出て熊本をめざした。彼は陸軍大将の略服を着て正帽をかむり、草鞋脚絆(わらじきゃはん)の足ごしらえも厳重に、雪道を田の浦にさしかかった。彼に従うのは桐野利秋、村田新八、淵辺照であった。
 田の浦には隆盛の長男である十一歳の寅太郎が、下男につきそわれ待っていた。
「寅太郎、ようきやったのう」
 隆盛は足どりをゆるめ子とともに数町をゆく。
「もうここでよか。もう戻りやい」
 寅太郎は雪中に立って父を見送る。隆盛は幾度もふりかえり、子の姿が見えなくなるまでくりかえした。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府