連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 明治十年二月十二日、川村海軍大輔(たいふ)が尾道から送った電報が東京の岩倉具視右大臣のもとへ届いた。内容は切迫した鹿児島の情勢報告であった。
「去ル九日ノ朝、鹿児島湾に至ル。私学校ノ諸生兵器ヲ擁シ、本艦に薄近セントスルノ形状アルヲ以テ、陸ニ上ルコトヲ得ズ。大山県令ヲ本艦ニ招致シ其詳ヲ問フ。県令曰ク『私学校ノ諸生ハ怒気激昂シ予等ノ力ヲ以テ之ヲ鎮静スベカラズ。其原因ハ中原警部が、川路大警視ノ命ヲ含ミ西郷大将ヲ刺殺セントスルニ起ル。県庁は中原及其徒二十余人ヲ捕縛セリト。
 鹿児島ノ事決裂セル既ニ此(かく)ノ如シ。復(ま)タ如何トモス能(あた)ハズ。急ニ大処分ヲ行ハンコトヲ乞フ」
 岩倉は大久保内務卿と協議して、大久保は翌十三日、横浜から西下、十六日に神戸へ着港すると、京都へ急行して天皇に単身鹿児島へおもむき、私学校鎮撫にあたりたいと上奏した。
「私と西郷は不幸にもこの幾年かは主張が折れあわず、離れておりますが、西郷の心事をもっともよく知るのは私であります。
 私が西郷に会い説得すれば、西郷はかならず私学校党の者どもをおさえ、激発させずに収めるにちがいありません」
 内閣では大久保の意向に反対の意見が多かった。木戸孝允は征討令を発令されたときは、全軍の指揮をとり、一挙に鎮定すると強硬論を主張した。
 廟議(びょうぎ)の結果、二月十七日に有栖川宮熾仁(たるひと)親王を勅使(ちょくし)に任命され、陸軍少将野津鎮雄、三好重臣(しげおみ)が護衛兵司令官を命ぜられた。
 二月二十八日、勅使有栖川親王殿下は海路をとり鹿児島へ下向されることになったが、突然熊本鎮台司令長官谷干城少将から電信が届いた。
「薩軍ノ先鋒スデニ熊本県下佐敷ニ至ル。鎮台ハ二十日若(もし)クハ二十一日ヲ以テ開戦スベシ」
 切迫した情勢を知った政府は廟議をふたたび開き、勅使下向をやめ、翌十九日、逆徒征討令が発せられた。
「鹿児島県暴徒は、ほしいままに兵器を携え熊本県に乱入、国憲をはばからず、叛跡顕然(はんせきけんぜん)につき、征討仰せられ候条、この旨あい達し候。
 明治十年二月十九日 太政大臣 三条実美」
 という内容である。
 有栖川親王は征討総督として、大阪に総督本営を置き、征討軍団に進発命令を下したのち、福岡に本営を移転する予定をたてた。

 二月二十日午後二時、薩軍独立一、二番大隊が熊本の南端川尻に入ると、市中は火事場のように騒ぎ立っている。荷車、馬車で混雑し、子供を連れた男女が大きな荷物を背負い、山中へ隠れようと押しあっていた。
 斥候が市中の情況を偵察してきて、指揮長別府晋介に報告する。
「熊本鎮台は民家を焼き払い、城外を平坦となし、要所に砲台をふやし、地雷を埋設して、俺(おい)どもを待ちおっとごわす。火はまだ消えんち、年寄りも子供も走りまわり、湧きたっておいもす」
 別府はこの情況で進軍すればたちまち鎮台との戦闘がはじまると判断し、全軍を停止させ偵察斥候の小部隊を前途に派遣したのみで、後軍が到着してのち隆盛の意向にそうべきだと判断した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府