連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 村田は明治二年鹿児島常備隊砲兵隊長をつとめ、同四年には宮内大丞となり、そののち岩倉全権大使一行に加わり、欧米を巡遊して同七年に帰国した。世界の現状に通じた人材である。
 隆盛が私学校党を率い東上すれば、大久保、岩倉らが政府に対抗しうる唯一の大勢力を征討する好機と見て、かならず叛乱軍の烙印をおすであろうと推測していたので、おどろかなかった。
 隆盛の決起に応じて叛乱に参加する全国士族の数は、おびただしいと村田は予想していた。高知県の林有造らは、隆盛が頼めば決起して大阪を占領するため、立志社の壮士らを動かすであろう。
 隆盛は政府と戦うことなく、わが威望により、岩倉、大久保、木戸らの悪政を指弾し、失脚させられると思っていた。だがそれは世情を知ることに疎(うと)くなった隆盛の夢想にすぎないと、村田はそうした楽観の消え去る日がくるのを覚悟していた。
 政府の海陸勢力は薩軍とは比較にならない厖大なもので、戦意を持たず東京へ旅行に出向くつもりの薩兵は、弾薬、食糧、衣類など輺重(しちょう)の支度はまったくない。
 軍資金もわずか二十五万円を持っているだけである。島津久光側近の市来四郎は薩軍の貧寒とした懐ぐあいにつき、記している。
 「将兵から人夫に至るまで、およそ二万人を超えている。一日一名、食糧などの費用が二十銭ずつとして四千円である。傷病人の療養費一名につき三十銭として、一日分六千円となる。
 二十五万円の軍資金では一カ月も持ちこたえられないのではないか」
 市来のいう通り、隆盛らが予期していなかった戦支度は皆無に近い状態であった。
 熊本鎮台は谷干城陸軍少将を司令長官にいただく、歩兵第十三連隊第一大隊、第二大隊、砲兵隊、工兵隊をあわせ三千四百余人である。
 官軍の全兵力は、第一、第二、第三、第四旅団、別働第一、第二、第三旅団。その総兵力は六万に近い。
 また海軍は二三〇一トンの龍驤以下一九隻の艦船を擁し、兵員二千二百八十名。艦砲射撃、警備、偵察に縦横の活躍をおこない、精鋭無比の薩軍も九州、四国から近畿に及ぶ海域の制海権を官軍におさえられ、海路を用いる作戦行動を展開できない。長崎、博多、下関など薩軍が東上のための要衝に進出できない情況にひきずりこまれてゆく結果を招く威力を発揮した。
 熊本鎮台では薩軍接近の直前、二月十九日の正午前、谷司令長官と樺山参謀長が城内巡察に出ていたとき、突然本営附近から黒煙が湧きあがり、火の手は見る間に一帯の建物にひろがる。籠城にそなえ倉庫から廊下、櫓(やぐら)に積みあげていた兵糧、薪炭がいっせいに燃えあがった。
 櫓下の火薬庫に引火すれば大爆発をひきおこすところであったが、将兵の命をかけての消火活動で引火は免れた。だが天守閣、二の天守から城内のすべての楼閣倉庫は三時間ほどのあいだに全焼してしまった。
 さらに火災が呼びおこしたのか北西の風が吹きつのり、城台の焼け残りの木材が火の粉を飛ばし、城下の民家が燃えはじめた。
 市街の火災は熊本城から東北へむかいひろがるばかりで、前例のない大火災となった。そうなれば住民たちは消火につとめるよりも、家財を荷車に積み避難しようと急ぐ。警官が市中を駆けまわり避難を指示して喚(わめ)きたてる。
「町なかも鎮台同様に丸焼けになる。いまのうちに逃げにゃ、焼け死ぬぞ」
 大火のおこった原因はいろいろと噂にのぼったが、熊本鎮台の会計部に勤務していた曹長が鹿児島県人で、薩軍決起の前に休暇を申請し鹿児島へ帰省した。
 彼は薩軍に協力するため、熊本鎮台が籠城に必要な兵糧、薪炭を早急に購入しはじめたとき、騒動にまぎれ人夫となって城内へ入りこみ放火、銃殺されたと『血史西南役』という史書に記されているが、事実のように思える。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府