連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 谷司令長官は、砲撃戦になれば木造の城郭は出火して、かえって混乱をおこしやすい。石垣さえ残っておれば要塞としての強みは変らないと将兵をはげまし、猛火をくぐり米麦六百石、味噌、醤油、塩、酒など必要な食糧を二日間で買い集めさせた。
 谷、樺山ら鎮台首脳の将校たちは、明治九年十月の神風連の乱のとき、百姓、商人からの徴兵で編成された熊本鎮台兵が、日本刀をふりかざす士族叛徒に追いまわされ逃げまどった実状を重視していた。
 白刃をふるい肉弾攻撃で天下に敵なしといわれる薩軍と白兵戦をおこなえば、たちまち潰滅するにちがいなかった。
 そのため一旦籠城すれば城門を塞ぎ、一兵も城外へ出すことなく、銃砲の火力で敵の攻撃を凌(しの)ぎ、援軍が到着するまで堪えぬく方針をとることにきめていた。
「剣術では子供扱いされようが、銃砲を扱えば対等じゃき、助勢がくるまで城から狙撃して持ちこたえよ」
 熊本ではこれまで鎮台兵を蔑視する風潮がひろまっていた。
 鎮台の小使が夜間に外出すると、提灯に書かれた鎮台の文字を見た青年らが、小石を投げたり、水をかけにくる。
 樺山参謀長が下宿から乗馬で城内の兵営に出勤するとき、市中の児童がついてきて竹棒で馬の尻を叩き、「くそちん」「くそちん」と呼びかけあざ笑った。「糞鎮」である。維新の風浪のなかで血を浴びた経験を積んできた樺山は苦笑を浮かべる。鎮台兵を夜間歩哨に立てると、犬猫が闇中を動いただけで発砲するような臆病なふるまいをした。
 川路大警視は大久保内務卿と内談のうえで、約二千名の警部巡査を九州へ派遣していた。長崎、福岡、佐賀に上陸させ、薩軍の蜂起に備えている。
 二月十九日に叛徒征討令が下ると、長崎にいた綿貫少警視は巡査隊六百人とともに、熊本城へと入城した。
 二月二十一日、別府晋介の率いる独立第一、第二大隊を六番、七番大隊と改称し、午後四時に熊本へ出発した。小島という集落に近づくと、斥候が駆け戻ってきて報告した。
「敵艦が坪井川の川口に入り、百貫石(ひゃっかんせき)の辺りで近衛兵を上陸させようちする様子であいもす。兵数は甲板にあふれちょいもす」
 薩軍は別府晋介が二千人ほどの兵を迎撃させた。
 百貫石に到着した彼らは、敵兵を満載した短艇が着岸しているのを見た。薩兵は蘆(あし)の茂みに隠れ、轟然と狙撃を集中し、うろたえ四方へ逃げようとする敵を包囲し、抜刀して斬り倒す。近衛兵は全滅した。
 薩軍は官兵の武器弾薬を短艇に積み、凱歌をあげた。薩兵は官兵と二度衝突して、白兵戦の威力を過信しすぎた。
 薩軍諸将は、西郷隆盛が川尻の本営泰養寺に到着すると幾度も軍議をひらき、熊本城攻略の可否を論じた。
 篠原国幹は鹿児島出発以前から強硬策を主張しており、その方針をまったく変えていなかった。
「俺(おい)どもが熊本の城を攻め落せんときは、とても東京に行き着けんでごあんそ。城を四方より攻めて陥落させる。それで全軍の半ばを失うとて、天下の同志はかならず決起しもす。なんの気づかいもなかごわす」
 隆盛の弟小兵衛、野村忍介(おしすけ)らは反対した。
「いま天下の有志者は、政府の大官どもを信じおりもはん。筑前(福岡県北西部)、筑後(同県南部)、豊肥(同県東部・大分県北部)、長崎、小倉の士族は、はや俺どもの味方で、何千もの人数がわれらと協同して立つとのことでごわす。いま全力をふるって城を攻め、損害を受くるは上策ではなかごあんそ。
 城攻めは先着諸隊に任せ、本隊はひたすら前進して官軍を攻めやぶり、長崎、小倉を占領しもんそ。ならば熊本城は兵粮に窮し落城するに違いなかごわんそ。
 九州を手中にすれば、全国の壮士はすべて立つでごわす」
 隆盛は長い思案をかさねた末に、全軍で熊本城を包囲攻撃する篠原の策をしりぞけた。桐野も小兵衛らの主張をうけいれた。



   4      10 次へ
 
〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府