連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 篠原と桐野は大久保、川路の放った密偵の策略に乗せられたのだとの説が、のちに巷間(こうかん)にひろまった。
 薩軍が熊本城を攻撃すると、城内の鎮台兵が叛乱をおこし、鎮台の幹部将校をみな殺しにして、薩軍に合流するとの流言を篠原らが信じたというのである。
 隆盛は熊本城を包囲攻撃しても、被害がふえるばかりであると、判断した。大久保らの奸策に誘い出され、政府軍との戦闘準備をととのえないまま、隆盛の威望と私学校軍団の圧力により各府県の士族たちの参加を得て、大久保、川路ら大官の非行を問責しようとする、隆盛の望みの綱は切れた。
 このうえは薩軍隼人としていさぎよい最後を迎えるよりほかに道はないと見通した隆盛は、まったく軍議の席に出なくなった。
 二月二十五日に、政府は陸軍大将正三位西郷隆盛、陸軍少将正五位桐野利秋、陸軍少将正五位篠原国幹以下、薩軍に加盟した将校らの官位をすべて剥奪した。
 隆盛は陸軍大将の正帽をかぶり、略服を着て鹿児島を出発していたが、征討令が発せられたことを知るとただちに軍服をぬぎ、和服姿になった。大きく突き出た下帯に兵児帯(へこおび)を巻き、和泉守兼定一尺七寸の脇差を腰にして、外出するときは大きな竹笠をかぶり、たまには中折帽子をかぶることもあった。

 熊本では明治九年十二月から士族有志が幾度も協議をおこない、西郷隆盛が決起したときは行動をともにするための、支度を進めていた。
 二カ月前の十月二十四日、神風連の乱がおこり、鎮台はかろうじて鎮圧したが安岡良亮(りょうすけ)県令、種田政明鎮台司令長官が殺害された。
 続いて十月二十六日に福岡、秋月の乱、二十八日に山口、萩の乱がおこり、世情は騒然としていた。
 熊本士族には学校党、敬神党、実学党、勤王党、民権党の五団体があったが、勤王党は、宮部鼎蔵(ていぞう)以下の志士のほとんどが維新動乱の間に落命し、敬神党は神風連の乱で壊滅した。
 実学党は横井小楠(しょうなん)の思想を継ぎ、政府に反対の立場をとっていない。学校党は藩校「時習館」の系統を継ぐ旧肥後藩士の主体としての隠然たる大勢力を維持していた。
 民権党は政府施策に不満で、その政治方針を打倒し自由主義を推進しなければならないと広言していた。
 彼らは人吉の有志を通じ、鹿児島私学校党の有志が、熊本県下にきてしきりに銃器弾薬を買いあさっては、天下に事をなす時機がきたと気勢をあげている様子を聞き、事変がまもなくおこると察していた。
 明治十年二月二十日、私学校党と連絡をとりあっていた民権党は熊本協同隊として、四百余人が挙兵した。学校党は同月二十二日に決起し、両隊で十五小隊を組織し、総勢千三百人が熊本隊と称し行動をはじめた。
 大隊長は学校党の領袖で四十歳の池辺吉十郎が選ばれた。各小隊は地縁、血縁で結成され、もっとも多数の小隊は百七、八十人。少数の隊では五、六十人。六番小隊は最小で七人しかいなかった。
 熊本隊はその夜、春竹町(はるたけまち)紺屋に進出していた薩軍本営に使者二人を出向かせ、西郷隆盛に会い、参戦の意を述べた。隆盛は両手を畳につけて丁重に挨拶をした。
「拙者が西郷吉之助ごわす。このたび貴県有志の方々のご援助をいただくことは、まことご厚意に感謝の言葉もなかごわす。
 ただ拙者らは地理不案内で、道を案内する嚮導者(きょうどうしゃ)を幾人かお頼ん申したかごあんで、そんうえのご加勢はご無用になはってくいやんせ」
 二人の使者は参戦の決議を終えているので、中止できないと答えた。隆盛はしばらく考えたのちうなずいた。
「そんなら明日の城攻めには、地理に明るい貴隊が搦手(からめて)より押しいってやったもんせ」



    5     10 次へ
 
〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府