連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 この日午前六時から薩軍は七千余の兵力で熊本城を攻撃していた。薩軍砲兵隊の火砲は輸送が遅れ、八代辺りを通過しており、戦場に到着するのは夜半であると見られていた。
 熊本城の正面からは、五番大隊が池上四郎(いけのうえしろう)の指揮のもと、砲煙弾雨のなか凄まじい攻撃をくりかえした。城内に布陣していた官軍は、銃砲撃では薩軍を圧倒する。城壁の内から雨のように銃砲撃を浴びせかけると、弾薬を豊富にそなえているので、城壁をよじ登ろうとする薩軍諸隊は、たちまち死傷者の数をふやした。
 薩兵らは敵の猛射撃に対抗しようと、倹約すべき弾薬をつい使いすぎてしまう。
 硝煙のたちこめる戦場で、敵陣の方向を銃砲声で聞きわけている薩兵たちは、銃弾が不足するうえに、飯と水を届ける人夫の数も減ってきたのに悩まされた。
 官軍は下馬橋(げばばし)砲台の山砲一門、千葉城砲台の野砲、山砲各一門、城内の野砲二門、臼砲一門を咆哮(ほうこう)させ、薩軍の損害は増加してゆく。薩軍は県庁、藤崎八幡宮を襲撃するが、官軍は社内の砲台から野砲を発射し、榴弾、榴散弾を連発し、薩軍はなぎ倒される。
 官軍も薩兵の狙撃をうけ、死傷者が続出した。樺山参謀長が負傷し、歩兵第十三連隊の与倉知実連隊長が戦死したのは午前十一時頃であった。
 与倉中佐は大砲の射手が薩軍の狙撃をうけ、あいついで倒されてゆくので、双眼鏡で敵兵のうちの狙撃手の動きを発見し、部下に命じ射殺させることに熱中していた。
 城の西北にあった砲台の射手は狙撃されて、継続射撃しているのはわずか一門であった。与倉連隊長が敵兵の動きを注視するとき、思わず姿勢を高めにしたため、腹に一弾を受けた。陸軍大尉清水鋭威が駆けつけ、中佐を体の上に乗せ、あおむけに寝たまま後方へ六メートルほど動き、軍医を呼んだが、連隊長はすでに絶命していた。
 城の背後から攻撃する薩軍を指揮するのは、篠原国幹であった。彼は二十一個小隊約四千人を指揮していた。
 午前十時から動きはじめた篠原の兵団は、官軍が死守する段山(だにやま)を奪取した。官軍は必死の逆襲をくりかえすが、白兵戦がはじまると官兵は薩兵の敵ではなかった。
 一人で二人、三人を斬る者はあたりまえで、七人、八人を撫で斬りにする荒武者がいる。一番大隊四番小隊坂元隊はまっさきに城の西北部藤崎八幡宮の高台を占領し、城内へなだれこもうとしたが、官軍が前後左右から銃火を集中してくるので、一個小隊二百人では弾幕を突破できない。
 坂元は味方を呼び寄せようと伝令を走らせるが、銃砲火が飛びかっていて、まったく連絡がとれなかった。
 味方の一番大隊、二番大隊の久留、佐藤、鎌田、川村の四小隊が坂元隊の右下で城壁をよじ登ろうとしては、射撃の的になり、苦戦している状況を坂元隊の伝令が発見すれば、彼らと連携して薩軍は城内に乱入できたかも知れない。
 久留ら薩軍小隊長らのうちには、部下を叱咤激励するため、銃火のなかで立ちはだかり命を失う者がすくなくなかった。
 熊本隊隊長池辺吉十郎は二月二十一日に川尻へ出向き、薩軍篠原国幹と熊本城攻撃についての軍議をかわし、二十二日朝から篠原とともに段山口攻撃の戦いに参加した。彼は篠原の行動を観察しており、その内容を隊士らに告げた。
 彼の顔は硝煙にくろずみ、全身に火薬のにおいがしみついていた。彼は出町の本営に千三百余人の全隊士が密集しているのを見て笑みを浮かべた。
「これほど集まってくれるとは思うてもおらなんだ。ありがたい」
 池辺は一昨夜川尻で篠原国幹らと攻城戦略について話しあい、二十二日朝から篠原と同行して段山口からの攻撃に協力した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府