連載
「まぼろしの維新」
第十章 血戦 津本 陽 Yo Tsumoto

 篠原は常に兵士の先頭に立ち、小銃を構えて狙撃を続けるばかりで一言も号令を発しないで、大部隊を手足のように進退させる。池辺は彼の武者ぶりに感じいった。
 熊本隊は二十三日早朝から城北二の丸から攻撃開始の手筈を定めたが、夜が更けて薩軍本営から連絡の使者がきた。翌朝からの攻撃は中止になったという。前日の戦闘で前途に敵なしと楽観し、東京で花見をするつもりでいた薩軍が、まったく予期しなかった甚大な損害をこうむったためである。
 政府は諸鎮台、警視庁の諸部隊を陸路、軍艦、汽船を用い急きょ九州にむかわせている。薩軍首脳はいまとるべきもっとも有利な手段は鹿児島に帰り、故郷の山野にたてこもって長期戦を展開することだと考えたが、薩摩隼人の面目にかけて退却はできないとの意地をひるがえせないのは、みな同様である。
 薩軍は二十三日の城攻めに熊本隊の協力を辞退したが、午前七時頃、場外の高所花岡山、日向崎に四斤山砲数門が到着したので、いきおいをもりかえした。
 薩軍山砲は旧式であるが、城内弾薬庫附近に集中射撃をおこなうので、官軍は必死で弾着の射程外へ弾薬を移した。花岡山からは城内の様子が手にとるように見える。
 台場には附近の町民、突入に備えて待機している薩兵が押しあうように集まり、城中から間を置いて撃ってくるアルモスノ砲の砲弾がけたたましく空中を擦過して、地面をゆるがし土砂をふきあげると、地面に伏し喚声をあげる。
 危険きわまりない戦場見物を楽しむ人がふえてきた。町民、士族から焼酎、酒肴が差しいれられ、三味線の音、唄声が湧きたつのであった。
 辺見十郎太の率いる一個小隊が、進軍ラッパを吹かせて城壁を登ろうとしたが、暴風のような射撃を浴び、中止せざるを得なかった。辺見は砲弾の断片に額をかすられ、血達磨のようになったが、指揮をやめなかった。

 熊本城の北方でも、二月二十二日に薩軍と官軍の遭遇戦がはじまっていた。官軍第十四連隊小倉営所、福岡分屯所の官兵が熊本城に増援のため南下しているとの、斥候報告があった。
 薩軍は四番大隊に九番小隊と五番大隊二番小隊四百人を迎撃にむかわせることにした。二小隊は朝からの攻城戦で、弾丸をおおかた撃ちつくし、弾薬盒に残る数はわずかであるが、白刃をふるっての突撃は望むところであった。
 九番小隊長は伊東直二、二番小隊長は村田三介、いずれも剣客として知られていた。両小隊の嚮導は熊本隊隊士野満安親(のみつやすちか)、富記(とみき)の兄弟であった。
 熊本城の援軍として南関(なんかん)から植木へ進んでいるのは、熊本鎮台小倉衛戍(えいじゅ)歩兵第十四連隊右半大隊、第二大隊左半大隊、第三大隊。将校三十八人、下士百二十人、兵卒八百五十七人、総員千五十人で、新式後装銃を装備していた。
 薩軍二個小隊が植木へ出発する前、五番大隊九番小隊が植木の手前の大窪(おおくぼ)に布陣していた。小隊長の国分寿助が小倉第十四連隊の熊本増援を予想して、独断で進出したのである。
 彼らが森蔭に身を隠している眼前を、村田小隊が砂を捲きあげ急行軍で通過してゆく。
「あれらあが一番駆けしよっとか。くやしか」
 国分らは本営の命令を受けていないので、村田隊を見ているしかない。戦闘がはじまってからしか動けない。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府