連載
「まぼろしの維新」
第十一章 露の命 津本 陽 Yo Tsumoto

 乃木は地面に投げ出され、従兵阪谷伍長が身代りとなって敵の乱刃のもとに倒れた。官軍は木葉川を渡り全隊が退却してゆく。
 稲佐村の高所にいた後衛の士卒四十人が、あとを追ってくる薩軍にむかい一斉射撃を二度くりかえした。薩軍は突然動きをとめた。
 熊本城攻囲をつづける薩軍本営からの急使が、木葉から稲佐へ潰走する官軍を追う薩軍八個小隊に、命令をもたらしたのである。
「有力な官軍が山鹿(やまが)本道を南下、貴隊らの背後を攻撃するおそれあり。そのためただちに稲佐より南関(なんかん)への前進をやめ、植木に集結し守備態勢をとれ」
 薩軍本営は先鋒の八個小隊が木葉附近の戦闘で大損害をこうむり、大敗したという官軍の流した偽りの情報をうけ判断を誤り、進撃の好機をのがした。
 植木の戦いで薩軍の戦死者は、国分隊数名、負傷者は第九番小隊長国分寿助ほか十名。官軍戦死者は吉松少佐以下二十二名、負傷者は四十九名。
 薩軍の奪った武器はスナイドル式銃三百六十挺、弾丸一万二千発であった。官軍の吉松少佐は後送の途中で絶命した。
 薩軍は池上四郎の指揮する歩兵四千七百名、山砲数門で熊本城を包囲させ、二月二十二日、博多に上陸したという征討第一、第二旅団を迎撃するため、桐野利秋、篠原国幹が山鹿と田原(たばる)、村田新八と別府晋介が木留(きとめ)に大兵力を急行させ、南関を撃破する作戦をたてたが、味方敗北の誤報により進撃の速度をゆるめ、勝機をつかめなかった。
 二月二十二日に博多へ上陸、隊列をととのえた征討第一、第二旅団は即時前進して、二十四日には久留米市市中に入った。
 第一旅団司令長官は陸軍少将野津鎮雄(のづしずお)、参謀長は陸軍中佐岡本兵四郎。第二旅団司令長官は陸軍少将三好重臣(みよししげおみ)、参謀長は陸軍大佐野津道貫(のづみちつら)。
 新鋭部隊が久留米から高瀬へ進軍の態勢をととのえているとき、木葉村での激戦で薩軍に蹴散らされ退却してきた、歩兵第十四連隊第三大隊の士卒が、雨と血に濡れてあらわれ、渡辺中尉が乗馬で旅団本部に到着し、前日からの戦況を報告した。
 野津大佐は即時攻撃すべきだと主張した。
「薩人は勝てばいきおいづき手に負えもはん。第一旅団前衛は人力車に装備を積み、木葉へ駆け足で急行すべきでごあんそ」
 官軍は第一、第二旅団主力を高瀬占領にむけ前進させ、敗退してきた第十四連隊は山鹿へむかわせた。
 薩軍に協力して熊本城を攻めていた熊本隊は二月二十三日に風雨のなか、三百余人の別働隊を高瀬の方向へ派遣した。博多から南下してくるとの情報があいついでいる、官軍旅団を迎撃するためである。
 熊本別働隊は熊本北方四里弱の木留村に宿営し、翌二十四日の未明に出発して、高瀬街道の熊本への近道である吉次(きちじ)峠をめざした。激しい風雨をついて三里を行軍し、伊倉(いくら)村に着き、村民に情勢を聞くと、官軍は北方の玉名(たまな)に宿営しているという。
「よし今夜はここに泊ろう。明朝は玉名へ押し寄せりゃおもしろかはたらきができるばい」
 日没のまえに数十人の別働隊士は、高瀬で大敗した官軍第十四連隊が武器装具を放棄していると住民らの連絡をうけ、それを分捕りに出向いた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府