連載
「まぼろしの維新」
第十一章 露の命 津本 陽 Yo Tsumoto

 彼らはスナイドル銃数十挺、背嚢(はいのう)七十数個、靴数十足、刀剣数十口(ふり)、眼鏡、時計、水筒、弾薬盒(ごう)、乾魚(ひうお)数十荷を担いで戻る。
 この夜、山鹿へむかう薩軍四番大隊千人が桐野利秋の指揮をうけ植木に進出、宿営した。
 二月二十五日午前七時、熊本別働隊は斥候の報告をうけた。
「官軍およそ千二、三百人が伊倉へ押し寄せてきますたい」
 伊倉は地形が平坦であるため、別働隊は南下して野辺田(のべた)山に布陣した。待ちかまえていたが官軍は正午を過ぎてもあらわれない。
「待ちくたびれたぞ。小天(おあま)におる薩兵と力をあわせ進撃するのがよかたい」
 小天には薩軍三個小隊六百人がいて、連絡をとるとただちに応じた。
 別働隊は彼らとともに高瀬攻撃を開始した。午後四時頃、薩軍に続き菊池川河口附近に進出すると、対岸の土手には土嚢(どのう)が連なり千数百人と推測できる官軍の大部隊が、銃口をつらねていた。
 こんな情況のもとで正面から白兵戦を挑むのは、獰猛(どうもう)な薩軍のもっとも得意とするところである。
 彼らは上流の橋を守る官兵に、集中射撃を加え、突撃してたちまち高瀬の敵堡塁になだれこみ、斬りまくった。
 熊本別働隊は下流の渡し場から舟で渡河して退却の態勢をとる官軍を、側面から攻撃する。たまらず、千二百人の官兵は玉名山へ退却した。
 薩軍と熊本別働隊九百人は高瀬を占領したが、大坂鎮台の官軍第八連隊の新鋭が進出してきて、猛烈な射撃を浴びせてきた。
「こやいけん、いったん退け」
 弾薬不足を気遣う彼らは、日没後の塗りつぶしたような闇に乗じ、伊倉に後退した。
 官軍第一、第二旅団は南関町に到着して、本営を置き、翌日からの熊本進撃の準備を急いでいた。

 高瀬で薩軍三個小隊、熊本別働隊の肉弾攻撃をうけ、甚大な損害をうけた官軍は、野外に篝火(かがりび)をつらね、二個中隊に戦闘態勢をとらせ、敵の急襲をいつでも撃退できる布陣をとった。
 野津、三好第一第二旅団司令長官以下参謀長らが、翌二十六日朝からの高瀬、山鹿の薩軍攻撃の部署を定めた。
 高瀬から植木への攻撃は、午前四時から開始する。先頭は前衛一大隊が敵を撃破して進路を確保し、つづいて中央一大隊、後備一中隊が前進する。
 後続する第二陣は、第二旅団近衛第一連隊一大隊が、午前五時半に進撃する。砲兵隊は夜明け前から逐次南関に到着するので、戦線に参加させる分隊と、本営守備にあたらせる分隊を分け、それぞれの部署に配置する。
 山鹿附近の警備には乃木少佐の指揮する三中隊が出動し、応援は第十四連隊二中隊と第二旅団第一連隊が南関で待機する。
 二月二十六日は午前七時、伊倉村に宿営していた熊本別働隊は、斥候の急報をうけた。
「敵の大軍が菊池川を渡って高瀬からこなたへ押し寄せてきますばい」
 熊本隊一番小隊長佐々友房(さっさともふさ)は、その日の戦闘の情況を『戦袍(せんぽう)日記』に詳細に記している。
 熊本別働隊は薩軍三個小隊とともに伊倉八幡宮の祠前を通過した。薩軍は左翼、熊本別働隊はその右翼高地に半月状に展開した。
 午前八時頃、木葉村の方向に銃声が湧きおこったが、高瀬に布陣している官軍は前進の気配を見せない。高瀬町の松林のなかには官軍数千人が集結するのが見えた。
 その隊伍整然として訓練のゆきとどいた様子は、薩軍、熊本隊の眼をひいた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府