連載
「まぼろしの維新」
第十一章 露の命 津本 陽 Yo Tsumoto

「あれは小倉分営の鎮台とは違うぞ。小倉分営の兵なら、あの人数であれほど静粛にはいかんぞね。あの連中は東京からきた援軍に違いなか」
 佐々友房らは官軍の態勢を、息を呑んで眺める。彼らは斥候十数人を敵状偵察に出発させつつ、谷間の低地に下りてゆく。
 谷間には密集した兵がいて、まばらな林間から激しい射撃を浴びせてくる。佐々が敵の振る指揮旗を見ると、赤旗である。
 斥候に偵察させると、敵と思ったのは、熊本隊十五番小隊であった。
「おーい、こっちは一番小隊じゃ。撃つな、撃つな」
 十五番小隊長岩間小十郎が駆けつけてきて、告げた。
「俺たち熊本大隊千人は、昨夜大隊長池辺先生に従い熊本を出立し、木留から白木、木葉を通過し、今朝当地に着いたばい。熊本本隊からの嚮導(きょうどう/道案内)が本隊出陣を知らせにきちょらんか」
「昨夜は歩哨が夜明かししちょったが、誰もきよらん」
 早朝からの高瀬の合戦では、敵味方が入り乱れ、見分けられない乱戦になっているという。
 佐々は十五番小隊と協力し、薩兵とともに谷間を渡り官軍にむかい突撃した。敵の部隊が潰走し、数丁を追ううち官軍士官が指揮旗を振り、敗兵をまとめているのを見た佐々は、狙撃兵伊東永に命じる。
「あれを撃て」
 伊東は一発で狙いを外さなかった。
 敗走していた官兵は援軍をふやし、猛烈な一斉攻撃をかさね、銃弾を雨のように集中してくる。距離はわずか半丁であった。佐々らは必死に戦い、数回の白兵戦によって危機を免れてのち、前夜からの谿谷にのぞむ陣所に戻った。
 薩兵数十人が陣所を死守し、白刃をふるい、押し寄せる官兵と入り乱れて戦う。このとき熊本隊は別働隊とあわせ千三百名であったが、官軍の罠にかかり、四分五裂して隊形を乱し、死傷者が続出した。
 熊本隊六番小隊長古賀作十郎が戦死した二月二十六日の戦況は『古閑俊雄・戦袍日記・第一巻』『宇野東風・丁丑感旧録』に記されている。
 二月二十六日、熊本隊全軍は未明に木留を進発し、高瀬へ直行した。農夫一人が途中で走り寄ってきて告げた。
 この先で熊本本隊らしい人々が官軍と戦い大変苦戦しています。すぐに行って助けてあげて下さいといった。このため主力隊が前方へ急行したが、農夫は官軍の間者であったため、たちまち伏兵の攻撃の渦中に陥り、前後から猛攻をうけ、ついに敗走した。
 池辺大隊長は中軍の前進隊と同行していたが、敵軍の包囲攻撃をうけ潰滅し、残兵わずか三十余人と村内の神社の内に布陣し、発砲応戦を禁じた。
 彼は庭石に腰をおろし、煙管(きせる)で煙草をふかすばかりであった。官軍は神社に庇(ひさし)を接する民家に火を放ち、攻めこむ動きをあらわす。部下は池辺にすすめた。
 ただちに血路をひらいて突撃すべきです。そうしなければ枕をならべて討死にするほかはありません。池辺はすすめを受けいれず、しばらくして俺の命令を待ってほしいといった。
 だが六番小隊長古賀作十郎、同半隊長佐藤健十郎と兵士二名は池辺の命令に従わず、刀を抜いて突撃した。四人はたちまち狙撃をうけ、戦死した。
 熊本本隊千人は官軍と入り乱れ、隊形を崩し、銃撃しあい、日本刀と銃剣との血みどろの白兵戦をおこないつつ、しだいに熊本の方角へ後退していった。
 別働隊佐々一番小隊長は、薩兵とともに小銃を乱射し必死の防戦をしていると、左翼を守備している別働隊と薩軍が、伝令を走らせ応援を求めてきた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府