連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 明治十年(一八七七)三月三日、官軍第二旅団参謀長野津道貫(みちつら)大佐の率いる歩兵五個中隊で編成した支隊は、午前五時に高瀬を出発し南下して伊倉へむかう。
 伊倉の南八キロのところに原倉村があり、その東方二キロに吉次越(きちじごえ)、その左手三キロの地点に耳取(みみとり)山があった。
 附近は大小の山嶺がつらなり、熊本に兵団が入るには、吉次越、耳取山のいずれかを攻めねばならなかった。
 薩軍浅江直之進の一個小隊は原倉にあり、薩軍相良(さがら)直良の一個小隊と熊本隊佐々友房(さっさともふさ)の率いる一個小隊は吉次越を固めている。熊本隊三宅新十郎の一個小隊は耳取山に布陣している。三ノ岳には熊本隊岩間小十郎が埋伏し、さらに熊本隊林七郎次らの四小隊は野出(のいで)に着陣し、たがいに連絡をとりあい、吉次越、耳取山の争奪がはじまれば戦闘に参加する用意をととのえていた。
 午前七時頃から木葉(このは)方面で銃砲声が高まり喊声(かんせい)が空にひびく。官軍支隊はたがいにはげましあって前進し、吉次峠の登り口の立岩(たていわ)に着くと、薩軍浅江隊の反撃をうけた。
 官軍は山砲、臼砲(きゅうほう)の射撃をさかんにおこない、薩軍の左方から猛攻を加えた。浅江隊は乏しい火力に頼れず、白刃をふるい斬って出る。白兵戦を数十回かさねると浅江隊の損害はふえるばかりとなり、苦戦に陥った。
 木留(きとめ)本営に出張していた篠原国幹、村田新八は原倉附近で官軍が猛攻を加えていると知ると、ただちに一個小隊を戦場へ急行させ、さらに一個小隊を応援にむかわせた。
 篠原、村田は戦いの指揮をとるために現地へ急行した。
 薩軍小隊長土橋七之丞は兵数を二つに分かち、左右の山肌をつたい官軍の背後へ斬りこませた。官軍は驚愕して高所から逃走し、数百人が低地に至った。
 だが官軍は大兵力によって薩軍の圧迫をしだいにはねのける。怒涛のような攻撃を加えられた寡勢(かぜい)の薩軍は退却して原倉の陣地にたてこもった。
 官軍の兵力は五個中隊であった。野津大佐は一個中隊を正面からあたらせ、二個中隊を右方、二個中隊を左方から攻撃させる。さらに別の一個中隊を後方に出現させ、退路を断とうとした。
 勇猛な薩軍もやむなく、白刃をふるい斬りまくって一筋の血路をひらき、吉次越、耳取山の味方のもとへ退却した。佐々隊は吉次越の台場から戦闘の情況を注視していた。眼前にあらわれた官軍は、桐野、篠原が訓練した頃の、鈍重な進退が影をひそめ、山腹の凸凹、樹木の疎密を利用し命令に応じ迅速に行動し、射撃も巧みである。
 弾薬に乏しい薩軍は立石小屋附近の山腹で、白兵突撃に持ちこみ、白刃をふるい死を怖れず戦った。
 彼らの先祖である薩摩隼人(はやと)は、戦場に立つとき、十数倍の敵中へ斬りこみ平然と死をえらんだ。足軽の身分である陸小姓(くがこしょう)のなかには、敵を三百人、四百人斬ったという戦歴を持つ老人がいたが、彼らは年老いても手厚い待遇をうけなかった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府