連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 冬になり寒風の吹くなか、狭い住居にいられない老武者たちは、筵(むしろ)一枚をかぶり、古疵(きず)の痛みに堪えながら錦江湾(きんこうわん)の砂浜でごろ寝をした。彼らの赫々(かっかく)たる戦歴は家中の誉れとして語り尽くせないほど、多かったのである。
 彼らの子孫である薩軍精鋭は立岩小屋附近で奮闘していたが、ついに吉次越、半高山(はんだかやま)へなだれをうって退く。
 薩軍小隊長上橋七之丞は戦死する。熊本隊三宅小隊は押し寄せてくる官軍大部隊と交戦し、悪戦苦闘をつづけた。
 篠原国幹、村田新八、別府晋介ら薩将が吉次越の台場に到着すると、兵を率い立岩小屋へ殺到した。官軍の砲撃は肥薩両軍に出血を強(し)いつづけた。
 薩軍は立岩小屋に備えていた山砲三門のうち一門を放棄し、二門を吉次越へ曳いてあがったが、砲弾はすでになく、官軍への形ばかりの威嚇に用いようとしたばかりであった。
 官軍二個大隊の攻撃は終日衰えなかった。夜明けがたから日没まで、松林に身を隠し応戦する肥薩の将兵は、銃撃に飛散する樹皮が顔に当り、眼もあけられなかった。
 熊本隊軍監古閑(こが)俊雄が五十人ほどの兵とともに、半高山の中腹に身を隠していると、官軍の長い縦列が通過してゆく。
「敵が手の内に入ったぞ。発砲させてはいよ」
 だが古閑軍監は許可せず、敵の大軍にひそかに迫った。敵が数間しか離れていない眼前に接近し、集落を焼討ちしつつ耳取山へむかいはじめたとき、古閑は大声で叫んだ。
「いまじゃ、一斉射撃」
 官軍は不意をうたれ、死傷者を残したまま退却してゆく。薩軍小隊長永山休二は吉次越から斜面を駆け下り、抜刀攻撃を加え、死力をつくして敵を斬る。
 吉次越の佐々隊は激戦のなか、一人の死傷者も出さなかった。敵を近寄せない険阻な地形と堅牢な台場が将兵を護った。
 
 三月四日は夜明けがたから激戦がはじまった。突風と降雨のなか、弾薬乏しく食に窮した肥薩の将兵は、必死の激闘を続ける。
 吉次越台場では篠原国幹と村田新八が新手の薩兵数百人を二隊に分けた。半高山と三ノ岳中腹から敵の側面に急襲を加えるためである。
 篠原は緋色の裏地が風にひるがえるたびに見える外套を着て、陸軍少将の身分であった往時にふさわしい銀装の剣を佩用(はいよう)していた。彼は数日前、植木本営で小隊長を集合させ、内心を語る訓示をした。
「われらが東上の挙をおこしたのは、すみやかに宮中へ伺候し、これまでの政府の方針を糺弾する意中を申しあげ、宿志を述べるためである。
 だがいまのように熊本城を包囲して日を重ねるならば、志を奏上できるのはいつになるのか。熊本城には一軍の押えを置き、本道、間道をとわず一斉に進軍すべきだ。熊本をいまのように囲んで動かねば、成功の日はいつくるか。台場などは不要である。
 道を塞(ふさ)ぐ敵は排し、一歩、寸地を進まねばならない。俺(おい)はこれを望んでいる、諸子に何らかの異議があるか」
 小隊長たちは拍手をもって篠原の意をむかえた。



 2        10 11 12 次へ
 
〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府