連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 官軍が八キロほども潰走するうちに、周囲に布陣する他の官軍部隊が銃火を集中してくるが、抜刀攻撃に移る態勢を見せると、逃走した。
 戦場には収容されないまま放置された官軍屍体が転がっており、死後硬直によってまだ生きているかのように手足を動かすのを見た官兵たちは、戦意を喪失し、銃砲を捨て逃げるばかりである。
 戦場の山腹では薩軍の上半分が紅色、下半分が白色の隊旗に似せた紅旗を振り、「味方、味方」と大声で叫び罠(わな)に陥れようとしたが、薩兵はだまされなかった。
 三月三日から五日までの戦闘で、官軍諸隊は全戦線で敗退をつづけた。二大隊を統率する野津大佐は士官らを召集し、命令した。
「この一帯は攻撃するに不便な土地である。もし無理に攻撃すれば、損害はふえるばかりじゃ。このまま戦えば損耗はどれほど深まるか見当がつかない。
 いまはいったん退却して兵を休め、兵器を手入れして再び出動するのが、最良の策だと思う」
 士官たちは同意し、小部隊を伊倉にとどめ他の兵はすべて高瀬に退かせた。
 耳取山を占領していた官軍も高瀬に退き、陣所は薩軍の手に戻った。官軍幹部は五日夜、高瀬陣営でこののちの作戦につき協議した。
 第二旅団参謀長野津道貫大佐は、吉次越、耳取山を攻撃するよりも、敵左翼の田原坂攻撃に全兵団の戦力をあげて攻めかける方針をとるよう、進言した。
「田原坂は大砲を曳いてゆけるゆるい道であるので、攻めやすくなる」
 第一旅団司令長官野津鎮雄(しずお)少将は同意した。
「よろしい、貴官が全軍の指揮をとれ」
 官軍の情報を探知した薩軍は田原坂の塁壁を固め、九個小隊約二千人が守備にあたった。
 三月六日の夜明けがた、官軍各部隊は田原坂本道を正面攻撃するため南下してゆく。第二旅団は田原坂本道、二俣本道を散開して前進した。
 官軍第一旅団は午前八時、銃砲の猛烈な射撃のあと、白兵攻撃をおこなおうとしたが、薩軍はよく戦う。彼らは官軍が接近してきても沈黙して戦機をうかがい、至近距離に至ったときに一斉射撃を加える。
 官軍は三個中隊を薩軍陣地の背後にまわりこませ、両翼を攻撃しようと動いて察知され、横手から狙撃をうけ退却した。
 官軍は正面、左翼、右翼から攻撃するが、たちまち逆襲をうけ、左翼を攻めた第八連隊第二大隊は完全に包囲され、全滅の危機に陥った。
 そのとき二俣街道にいた野津大佐は率いる二個中隊に突撃させ、包囲された部隊のために血路をひらき、全滅を免れさせた。
 官軍第二旅団も田原坂本道を正面攻撃して、なかばは撃退され、なかばは敵を制圧するため幾度も突撃をくりかえしたが、おおかたは白兵戦で倒れ、退却に至った。
 官軍は全戦線にわたり敗北し、反撃に成功せず、一斉に退却しつつあった。二俣にいる野津大佐は各隊から選抜隊という強兵四十余人を選ばせ、ひそかに間道を伝い敵塁に突入させた。
 薩軍は不意をつかれ、狼狽して塁を捨て後退したが、たちまち刃をつらねて逆襲してきた。選抜隊はこれを支えきれず、二俣へ潰走した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府