連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 三月七日朝、田原坂の戦線は濃霧のうちに沈みこんでいた。両軍は見通しのわるい戦場で攻守をくりかえすが、やがて田原坂西方高地にある官軍山砲陣地が、砲撃をはじめた。数門の山砲が二俣の薩軍を狙って砲弾を集中する。
 遮るもののない地形のなか、山砲弾が爆発すると、薩軍の死傷者は続出した。このため薩軍は抜刀隊数隊に山麓を伝い、砲兵陣地を急襲させようとしたが、官軍はその行動を察知して急射撃で応じ、薩軍抜刀隊は敵陣に接近できなかった。
 午後三時頃、官軍はやや前進し薩軍と五十メートルを隔(へだ)て対峙していた。薩軍はしばしば白兵攻撃をおこない、官軍は損害を重ね苦戦の色が濃くなってきた。
 薩軍指揮官らは狙撃兵に官軍将校の服装をしている者をひたすら狙わせるうち、彼らの兵力が薄い場所を発見すると、幾つかの小隊を突進させ急襲し、官軍はおおいに狼狽して陣地を捨て逃走した。
 三月八日、官軍の二俣坂、田原の戦闘は一歩も前進できないままに終わった。第一旅団は原倉にあり、砲兵陣地を増築して田原坂の薩軍に砲撃を加えたが、まったく効果がない。
 第二旅団は二俣から田原坂を攻撃したが、かえってつけこまれ、伏兵の抜刀攻撃をうけ、銃器弾薬を遺棄して潰走した。
 三月九日午後四時、近衛歩兵第一連隊第二大隊第一中隊は本道から田原坂東方の轟木の薩軍広瀬隊を攻撃した。
 さらに歩兵二個中隊は渓流をわたり大小砲を射撃しつつ迫ってゆく。広瀬隊は敵が接近してはじめて応戦した。陣中にいる間、山砲の猛射をうけたが薩軍の損害はきわめてすくない。
 堡塁の防壁は土を詰めた竹籠をかさねているだけの簡略なものであるが、砲弾で破壊されてもきわめて迅速に修復できる。応援の二個中隊ははじめて戦場に出たので、薩軍の白兵攻撃がはじまると、震えあがって逃走した。
 三月十日、薩軍木留本営は木葉の薩軍三個小隊を午前一時に吉次越で熊本一番小隊と合流させ、田原坂との間の円台寺を奪わせようとした。
 だが各隊は集合の機に遅れ、夜が明けてから前進をはじめたので、攻撃がきわめて困難となり、三、四塁を奪っただけで日没後に退却した。日々激戦をかさねる薩軍は火力、兵力を激減させ、敵本陣を壊滅させる戦力をすでに失っていたのである。
 この日、薩軍木留本営にいた村田新八は、大山巌少佐が高瀬本営にいると捕虜から聞きつぎの書面を持たせてやった。
「ほのかに聞く。君今般当地出張の数(すう)にありと。実否不明といえども、もしこの説をして実ならしめば、実に疑うべし。
 如何となれば君昨年帰県の節は官府の処(ところ)も、正否朝(ちょう)に位し玉石混淆せりと。
 故に独歩孤立確乎(かっこ)不抜の正論をもって俗胆を破らんと。意気揚々、議論聞くべきに似たり。然るに今度出兵の中にありと思うに、昔日の論今日に反し、俗吏の交際をなし、なんぞ旧魂を忘却せらるるの甚(はなは)だしきや。
 又は今節陸軍大将西郷氏別紙質問の為(ため)、關下(けっか)へ拝趨(はいすう)既に当地まで出張せらるるの趣意不通に出候や。
 不審万々依(よっ)て鹿児島県令より各県及鎮台之告知の一書相添え、此者帰し候。よろしく熟慮せよ。
 三月十日                  村田経満(つねみつ)
   大山巌殿」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府