連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 官軍は田原坂、吉次越、二俣の薩軍拠点を三月十日まで約十日間攻撃したが、死傷者が急増するばかりで、敵陣の堅塁を抜く見込みはつかず、熊本籠城軍の損耗は日を追って深刻になるばかりである。
 このため大挙攻撃を断行する方針をたて、作戦は左の二点においておこなうこととした。

  1. 一、 田原坂、二俣口に布陣の第一旅団諸隊は、守備位置を護って戦い、そのほかに横平山(よこひらやま)(那智山)南方の円台寺を襲う。
  2. 一、 第二旅団は砲兵隊の攻撃により敵塁を破壊し、田原坂西方の横平山の南につづく円台寺山の台地に進出する。

 官軍は三月十一日午前五時、号砲三発を発射して行動を開始した。円台寺山へむかった薩軍は、橋口小隊の堡塁を急襲し占領した。橋口隊の左翼に布陣する永山休二の小隊は官軍に横手からおそいかかる。附近の薩軍諸隊も応援に駆けつけ、官軍大部隊のなかへ乱入し敵の陣中へ飛びこみすさまじい白兵戦を展開した。
 永山は右眼に敵弾を受け即死する。薩軍は激怒し士気をおおいにふるいたたせ、敵を追撃し百余人を倒した。
 両軍の当日の損害はきわめて多かった。第二旅団は風雨をつき、戦場に到着した新装の大砲八門を発射しつつ、横平山、二俣から田原坂本道へ猛進し、薩軍堡塁三カ所を蹂躙して前進した。
 しかし、攻撃はそれまでで、田原坂を目前にして挫折し、薩軍、熊本隊の白刃をふりかざす突撃に対抗できず、潰走した。
 この日の戦闘ははじめ官軍が勝利を得たが、午後になって薩軍の白兵攻撃が功を奏したので、両軍の死傷者はもっとも多く、屍体で足の踏み場もなかった。
 三月三日から十三日に至る田原坂の攻防で、官軍のこうむった損害は、薩軍被害の二倍に達していた。薩軍のしかける白兵攻撃はいつでもすさまじい効果をあらわす。
 だが官軍は海路、補充部隊を戦線へ続々と投入していた。戦闘の主力である歩兵は、三十二個中隊に増加している。
 薩軍には佐土原(さどわら)、人吉、高鍋の党薩諸隊と呼ばれる壮士が参加してくるが、損害を補充するには足りない。とりわけ戦場で部隊を指揮する幹部の不足が深刻となりつつあった。
 田原坂、吉次越の薩軍のあいだで、彼らの願望をこめた俗謡が唄われていた。
 〽愉快や山鹿で
  苦戦は田原
  ついに吉次で
  とどめさす
 前述した熊本の病院に勤務する衛生兵は連日日記をしたためている。彼は南薩加世田郷(かせだごう)の郷士で二十六歳、大砲隊二番隊病院掛役を命じられた久米清太郎であった。清太郎の七カ月に及んだ従軍日記は、子孫の風間三郎氏著『西南戦争従軍記・空白の一日』と題した一冊となり、株式会社南方新社から発表されている。
 熊本城下の病院は混雑していた。重傷者は川尻本病院へ送られ手術をうけるが、清太郎は続々と運びこまれる負傷者を何人手当てしたか数を覚えられなかった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府