連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 三月十日、院内を巡回にゆくと血に染まった包帯を足に巻いた同郷の友、吉峰宗寿が寝かせられているのを見た。吉峰は田原坂で官軍の砲弾の破片により両足の骨を砕かれたのである。
「吉峰どん、大丈夫な」
 清太郎が声をかけると、吉峰は苦痛をこらえる顔をゆがめ、わずかにほほえみうなずく。三月十一日、十二日、十三日は大小荷駄(おおこにだ)隊が田原坂の前線から四十余人、五十人、四十余人と負傷者を運びこみ、市中にあらたに病院を設営しなければならなかった。
 そこもたちまち満員となり、患者は土間に隙間もなく寝かされた。清太郎は薩軍大勝利の報告が田原坂から届いているが、負傷者激増の現状を見ればそれを信じられなかった。
 同郷の壮士が意識もあきらかでない状態で、田原坂から戻ってきてそのまま川尻本病院へ運ばれてゆく。生死の運命を賭けて手術をうけるためであった。
 命知らずの勇敢な行動は隊の名誉となるが、重傷を受けた者は農民たちから募集した、軍夫二人が担ぐ長棒にぶらさげられた畚(もっこ)に入れられて、熊本まで野獣のように運ばれるうちにいい知れぬ苦痛を味わい、その半ばは落命するのである。
 三月十四日、官軍は薩軍の死傷がはなはだしいうえに、銃弾が尽きたらしく射撃もまばらになってきたので、この日に田原坂方面総攻撃をくわだてた。
 第一旅団、第二旅団、警視抜刀隊は一斉に進撃し、砲兵隊は二俣台場から砲撃して薩軍の抜刀攻撃を制圧しようとした。
 午前六時、号砲三発を発射した官軍は、銃剣をつらね突撃した。薩軍薗田小隊はいったん陣地を奪われかけたが、抜刀しての乱戦になると数倍の敵兵を圧倒し、官軍陣地になだれこみ、士官を狙い斬撃をくりかえす。
 薩軍は日没まで善戦を続け、敵士官と組みうち刺殺する小隊長もいた。官軍警視抜刀隊は、薩軍一番大隊七番小隊の堡塁に突撃すると、いきなり官軍が斬り込んだので、狼狽し、薩軍は刀を抜く余裕もなく退却したが、まもなく態勢をたてなおし反撃し、堡塁を奪回した。
 午後五時、数百の薩軍は攻勢に出て近衛第二大隊に斬りこみ、激戦を展開した。この日、七本(ななもと)の薩軍山野田、山内、瀬戸山、小城の四小隊は連日の激戦で合わせて九百名に近い定員が数十名に減少して、ひとつの台場に四、五人を配置するばかりで、弾薬も尽きはてていたので進撃できなかったが、ついに白兵攻撃をおこない敵四十人を倒し、多量の銃器弾薬を入手できた。
 白兵攻撃は命をなげうってかかれば、大戦果が得られる。太平洋戦争において硫黄島で日本軍が夜間肉迫攻撃をおこない、米軍は非常に悩まされたとの記述が米国の資料に記されている。
 闇中の入り乱れた近接戦闘では、照明弾をいくら撃ちあげても、突撃してくる敵の位置を確認できず、乱射すれば同士討ちになり、大混乱をひきおこしたというのである。
 日本側資料、記録にはまったく発見できないので、日本軍将兵が全滅した戦場では白兵戦が西南戦争と同様に、最後の激闘の段階におこなわれたのであろう。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府