連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 三月十五日の夜明けまえ、薩軍は四個小隊から選抜した四十名の精鋭に、官軍から奪った新式後装銃を持たせ、横平山の官軍堡塁を奇襲させた。
 空はまだ白まず、深い霧がたちこめていたので官軍は敵の来襲をまったく察知していなかった。だが薩兵の一人がくしゃみをしたので、官軍哨兵が警戒の声をあげた。しかし奇襲隊は一発も発射せず敵塁に侵入し肉迫して激闘をかさね占領した。
 横平山は西方の三ノ岳から吉次越を経て田原につなぐ連嶺(れんれい)のひとつで、田原坂、木留から行動する薩軍に対抗する。もっとも重要な拠点であった。
 もしその陣地を完全に占領されたときは、田原、二俣の戦線は崩壊する。官軍は歩兵第十一連隊の二個中隊、歩兵第一連隊の二個中隊、歩兵第八連隊の一個中隊、歩兵第十四連隊の二個中隊、警視抜刀隊を山麓に集結させた。
 官軍は薩軍の左翼から攻撃し、激烈な戦闘を展開した。両軍の戦死者は堡塁を築けるほど、うずたかく重なりあっていた。
 午後になっても激戦は続き、勝敗は決しない。耳取山陣営で指揮をとっていた村田新八は伝令使、加治木彦七を横平山へ走らせ、河野喜八小隊長に告げさせた。
「該地(がいち)は両軍の要地たり。これを失うべからず。各隊努力してこれを守れ。弾薬糧食は直ちにこれを送らん」
 河野は土塁に指揮旗を立て、弾丸雨飛のなかにあぐらをくみ、落ちつきはらって答えた。
「この地は死をもって守っで、気をもまるっこつはなかごわす。お前(は)んは戻り本営に報告して、弾薬、糧食を早う送りくいやんせ」
 加治木が河野と別れ六、七歩去ったとき、河野は額に弾丸をうけて即死した。時刻は午後一時三十分であった。
 官軍はラッパを吹き、山腹を這いのぼるが、山頂の一塁から薩軍が正確な狙撃をして、動く兵をすべて倒した。
 官軍工兵は土を詰めた袋を背負い、斜面を這いのぼり山腹の一カ所で転倒すると、袋で身を守り射撃する。薩軍は弾薬が尽き、兵員の半数が死傷したので、木石(ぼくせき)を投げて官軍の前進をとどめたが、午後四時になってついに横平山から退却した。
 横平山の決戦は田原坂方面のうち唯一の激戦で、薩軍の損害は死傷者二百四十数名、官軍死傷者は八百三十余名に至った。
 この日午後、薩軍の猛将貴島清が二個小隊を率い木留より戦場に到着し、山野田隊、長崎隊とともに白兵戦をくりかえした。敵軍との距離は三十歩、木石を投げ罵りあい白刃をふるう。
 官軍は追われて潰走したが薩軍の死傷は激増して損害はなはだしかった。
 久米清太郎は三月十五日の日記にしるす。
「今日負傷者六十人ほどがきて、毎日、寺院、市中の民家に新病院を設けなければならないので、夜通しの作業で各病院を巡院した。
 翌十六日も負傷者六十人が大小荷駄隊の馬車で到着した。患者の衛生状態はきわめて悪く、手足は戦場の泥と血に覆われ、破傷風予防の措置などまったくされていないのは、薬剤がきわめて不足しているからであった。
 高熱を発しうわごとをいう負傷兵が生きながらえるためには、幸運を頼むしかなかった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府