連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 翌十八日も負傷者六十人が担ぎこまれた。この日重傷をうけたまま、なすすべもなく放置されていた清太郎の親友吉峰宗寿が症状の悪化を防ぐために、負傷した足を切断することになった。
 官軍の放った砲弾の破片が左右の太股に突き刺さり、砕いて骨の傍(そば)まで達しているので切断手術をおこなうほかに、回復する手段がなかった。
 大手術をするため、鹿児島から医師児玉剛造を呼ぶことになった。児玉は鹿児島の「赤倉」と呼ばれた病院に勤務している外科医であった。
 赤倉というのは病院が当時珍しい赤煉瓦で建てられたものであったかららしい。正式には「鹿児島医学校病院」というが、明治二年(一八六九)に建設された。
 初代院長は天保八年(一八三七)英国アイルランドに生れたウィリアム・ウィリスであった。ウィリスはエディンバラ大学で医学をまなび、専攻は外科である。若いうちに王立外科会員となった秀才で、文久二年(一八六二)二十五歳のとき在日英公使館員として来日した。
 生麦事件のときも現場に駆けつけている。身長一九〇センチ、体重一二七キロの恐れを知らない青年であったという。彼は文久三年には英艦に乗船し、薩英戦争に参戦した。
 彼が薩藩と交流するようになったのは、明治元年の戊辰(ぼしん)の役のときであった。西郷らは京都相国寺(そうこくじ)内に薩藩病院を設け藩医を治療にあたらせたが、漢方医らは治療の方法を知らず、負傷者は感染症あるいは出血多量で死んでゆく。
 大山弥助(のちの巌)が耳に負傷したが疵ははかばかしく治癒しない。西郷はイギリスの医者が横浜で負傷者の出血をとめ、手足を切断して死に瀕している患者を大勢救ったのを知っていたので、洋医を招き治療にあたらせることを藩にすすめた。
 西郷は五代才助(友厚)らを駐日公使パークスのもとへやり、協力を求めた。朝廷は外国人の入京を許そうとしなかったが、重傷を負った兵士は連日命を落してゆくので強硬に申請し許可をうけた。
 負傷者のほとんどは銃創で、首に銃弾をうけた西郷信吾(のちの従道)も手術によって快癒した。漢方医らは手術を試してみるが、血管を結び止血し麻酔薬を使うことも知らなかったので、患者は耐えきれず死亡した。
 ウィリスはクロロホルム麻酔、止血法を用い名声をひろく知られた。明治二年二月には東京医学校の学長として活躍していたが、新政府によって「わが国はドイツ医学を採用する」と方針が一変したので、西郷隆盛は失業したウィリスを九百ドルの月給で招いた。
 新設された赤倉病院は外科、内科、産科、眼科の四科を置き、生理、解剖の基礎医学の研究もおこなわれた。
 ウィリスはイギリスから必要な医療器具をとりよせ、近代医療施設を完成させた。
 明治十年三月、西南戦争がおこるとウィリスは妻八重子、息子アルバートとともに英国軍艦で東京へ去り、帰国した。
 吉峰宗寿の手術をおこなう児玉医師は、ウィリスの高弟であった。
「児玉どんが手術してくれりゃ、間違はなか。死にゃせんど」
 清太郎たちは児玉が執刀すれば宗寿は死を免れると思っていた。清太郎は親友宗寿の体力がきわめて低下していることを知っていたので、弾片が深くくい入っている左足を切断して命拾いをしてほしいと切望している。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府