連載
「まぼろしの維新」
第十二章 田原坂 津本 陽 Yo Tsumoto

 片足を失えば、もはや郷士としてはたらくことはできないが、故郷での静かな生活を送れよう。
 清太郎は吉峰に左足切断手術をおこなうことを告げた。吉峰はすでに診察の状況を察知して、足を切断するよりほかはないと覚悟していた。
「よか、先生の申さるっ通り手術をうけもそ。砲弾が当るようなところにいたのは運が悪かった。治っても敵陣へ乗りこめんど。そんときゃお前(ま)んさあが俺を背に負い突進してくいやんせ」
 清太郎は内心では死を覚悟しているであろう親友の意中をおしはかりつつ、吉峰のつめたい手を握りしめるばかりであった。
 翌十九日、清太郎は淡々としるす。
「今日朝六時三十分、吉峰宗寿死没につきただちに埋葬かた、鮫島甚右衛門殿方へ届出、諸都合取付(とりつけ)。八時比(ごろ)川越、有馬、相徳、鮫島、拙者、共に二番病院にて埋葬方に而(て)遺髪を取りて墓印を書く。九時比墓所まで五名共、差越葬(さしこしとむらい)、宗寿看病女共二人に而(て)、其の女へ一円ずつ与う(下略)」
 田原坂方面の戦線では凄惨な消耗戦が続いていた。薩軍五番大隊四番小隊長長崎尚五郎は示現流の達人として知られていたが、三月十六日午後三時頃、堡塁の前六、七歩のところまで肉迫してきた官軍のなかへ斬りこみ、またたくうちに数名を倒した。彼が打ちおろす白刃を打ちはらえる敵はいない。官兵は彼に集中射撃を加えた。
 長崎が倒れるのを見た薩兵は怒号して敵に襲いかかる。彼らはふりそそぐ銃弾に身をさらすのを恐れず、気をたかぶらせ意識さえも失うほどに憤り敵影に殺到する。
 危険にひるむことなく、一小隊が五、六名に減っても追撃をやめない薩兵は、連日あいつぐ乱戦のなかで命を捨てることを急ぐかのようであった。
 三月十九日には薩軍は隊中に士官がおらず、あるいは全滅する小隊もあったため、小隊の制度をとりやめ、数隊を合併して一中隊と呼称するようになった。
 薩軍は官軍の物量によって消耗し、再起できないほどの深手をこうむっていることに眼をそむけ、敗北を認めまいとした。その理由として官軍の戦闘に倒れた兵数が、薩軍に倍加していることをあげる。その事実は誤っていないが、薩軍精鋭が損耗を重ねても、戦闘に参加する補充兵がいない。官軍は補充兵数がふえるばかりで、実際の戦況は薩軍の戦力ばかりがつるべ落しに落下していった。
 三月二十日午前五時、官軍は二俣から渓谷を渉(わた)って田原坂攻撃の位置についた。進撃の命令を待つが、夜中から降りつづく大雨はやむ様子を見せず、濃霧は垂れこめて眼前の物の形さえ分からない。
 午前六時、号砲三発が轟き渡った。官軍は近衛中隊を先頭に各隊が前進する。砲撃もつるべ撃ちの発砲である。
 本道の左翼を守る薩軍五番大隊四番小隊は、小隊長が戦死し、半隊長が重傷を受け入院し分隊長が指揮をとり、わずかな兵を動かし抵抗したが、背後から包囲されると向坂まで退き、本道の堤に伏せて防戦した。
 四番小隊右翼の薩軍五番大隊五番小隊は猛然と戦いつづけたので、野津大佐は歩兵第十四連隊の一個中隊に命じ、背後から攻撃させた。薩軍五番小隊は霧が晴れてきて、敵に包囲されているのを知ると堡塁を捨て植木街道から敵の背後を攻めようと走った。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府