連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 明治十年(一八七七)三月二十日、田原坂(たばるざか)で奮戦し十七人を倒した貴島清(きじまきよし)は薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)の遣い手として知られた元近衛陸軍少佐である。洋書を常に懐中にしていたというインテリの貴島は、私学校党の幹部として会議に列席した。そこで、桐野利秋がこれからとろうとする方針を述べた。
「今度は俺(おい)どもが大義名分を押し通すための上京じゃ。謀叛じゃなか。東京へまっすぐ上るだけでよか。何の策もいらぬ。熊本鎮台がさえぎりゃ、踏みつぶせ」
 桐野が熊本鎮台司令長官を明治五年に務めたあと、貴島もその後二年間勤務していたため、彼らの戦力を詳しく知っていたので反論した。
「いまの鎮台は城に籠りゃ強うごわす。東京へゆくには熊本を避け、豊後か長崎から海路をとらにゃいけもはん」
 桐野は貴島の提言を一蹴した。熊本の弱兵など怖ろしいのかというのである。貴島は西郷隆盛のために命を捨ててもいいと決心していたが、桐野のような暴れ者の率いる私学校党と行動をともにする気にはなれず、鹿児島に残留し、形勢を見守った。
 だが熊本で桐野らが火力において勝る官軍相手に苦しい戦闘をつづけているという情報をうけると、隆盛に同行して死ぬ覚悟をきめた。
 彼が戦場へむかうと聞いた鹿児島県士族は同行を望み、熊本に着いたとき貴島隊の兵数は六百五十人に達していた。
 貴島は家を出るとき、常に身につけていた金の腕輪をつぎの辞世の歌とともに妻に残した。

 かねてよりかくなるものと知りながら
  今日の別れの悲しかりけり
 
 貴島は県令大山綱良(つなよし)から軍資金三千円を受け、途中熊本にむかわず小倉を攻撃して薩軍の東京への進路を掌握しようとして、宮崎諸地域の兵を募集した。
 募兵を終え小倉へむかおうとした時、熊本の戦線の情況が激烈となり、薩軍の損害が甚大になってきたので、隆盛は急使を送り、貴島の一時も早い参戦を求めた。
 貴島は三月三日のうちに熊本へ駆けつけたのである。

 田原坂の激戦は三月四日からはじまり、同月二十日まで十七日間続いて両軍の死傷者は約七千人であった。官軍が連日費やした弾薬は、三十万発から五十万発に達した。薩軍は弾薬を消費しつくし、もっぱら肉弾攻撃をくりかえした。
 東京日日新聞の記者福地源一郎(桜痴)が、田原坂の現地取材に赴いたところ、白兵戦のおこなわれた場所で血にまみれた手帳一冊を拾って、記事を本社へ送付した。
「賊の手帳を得て一見せしに、西洋の手帳にて邦文と英文と取り混ぜにて認(したた)めたり。
 その姓名は知れねども、十八年十カ月の少年書生にて、去年東京に来(きた)り海軍生徒の試験を経たるに、国もと容易ならぬ形勢なりと聞き、昨十二月十七日に鹿児島に帰り、西郷に付属して出張せしことを記せり。
 敵ながら、かほどに英学も相応にできる少年が、死せしことは可憐なり」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府