連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 この手帳を持っていた少年は、村田新八の長男岩熊であろうとの推測が、南日本新聞社編『鹿児島百年(中)・明治編』に載せられている。年齢も一致するというのである。
「岩熊は明治初年、叔父の高橋新吉の招きでアメリカに留学、彼の『薩摩辞書』の手伝いなどをしていた。手帳はアメリカみやげのひとつ、戦場でも大事に身につけていたのであろう。なお、岩熊の弟二蔵(ふたぞう)も兄に従って従軍しているが、彼はのちに大口(おおくち)で重傷を負い延岡で官軍の捕虜となっている。
 岩熊は初め四番大隊に属していたが、半隊長の市来(いちき)弥之助が特に彼をかわいがり、『死なせるには惜しい才能』と、田原坂では前線に出さず伝令使として後方勤務にあてていた。
 攻防たけなわのある日、本営連絡のため木留(きとめ)に行ったが、そこに父の新八がいた。父は岩熊を見て怒った。
『若(わ)けくせに病人でん勤まりそうな仕事を買って出っとは何事(ないごつ)か。戦場に出たうえは、まっさきに奮闘せにゃいかん』
 小隊に引き返した岩熊は、奮然として植木の前線に突入し、死んだのである。
 半隊長の市来はおどろいて木留の本営にかけつけた。彼の戦死を新八に報告し、『申しわけなかこつばしもした』とわびたが、新八はひとこと、『わしが岩熊に死に場所を見つけてやったのだ』といった」
 肉親の情をおさえ、戦陣の義務を優先させるために愛児を死に追いやる、薩摩隼人の心情は、他県人には理解しがたいまでの峻烈きわまりないものであった。
 田原坂の戦いで死んだ薩軍の最年少は草牟田(そうむた)出身の満十四歳の諏訪昶四郎(ちょうしろう)である。庄内から私学校に遊学していた十六歳の伴兼之(ばんかねゆき)は田原坂で戦死、その兄鱸成信(すずきなりのぶ)は官軍の陸軍少尉として、植木で戦死した。
 彼らは秀才で、明治十二年に私学校からフランス留学生としての派遣が決められていた。田原坂戦線の現状を見た川口武定の『従征日記』には、つぎの記述がある。
「無数の賊屍、土塁の前後に枕藉(ちんせき)して倒れたり。賊はたいてい銃創(じゅうそう)を負う。その服たるや、陸軍旧制服、あるいは海兵服、あるいは小紋股引をつけ、うしろをからげ、あるいはメリヤスの股下などを服する者あり。
 形状一ならず。破裂弾にあたりたるものは五体飛散し、わずかに両脚もしくは片足を余す者あり。
 あるいは頭顱(とうろ)なかば爛砕(らんさい)し、脳漿を流し、スイカの熟爛(じゅくらん)したるに似たり。筆紙のよくつくすべきにあらざるなり。予ははじめてこれを見て、幽魂演技場の仮想をなし、人間現世の意思をなさず」
 三月二十一日朝、木留本営から薩軍二個小隊、熊本隊二個小隊が出撃した。田原坂を制圧した官軍が怒涛のように南下してくるのに対し、熊本隊を指揮する深野一三(いちぞう)隊長は薩軍と呼応して刀をふるい、部隊の先頭に出て斬りこむ。
 官兵三名が銃の筒先をそろえ、飛びこんできた。深野は一人を斬り倒し、さらに刀身をまわして横手の一人を斬った。その兵は一太刀斬りこまれ逃げる。深野が敵を追おうとしたとき、後方から味方ではなく官軍が潰走(かいそう)してきた。
 深野は引き返し数人の敵を相手に斬りむすぶ。熊本隊士が数人駆けつけてきて、官兵の斬り倒される者は数えられないほどであった。深野は敵を深追いせず、味方を呼び集めた。
 手にする刀は血にまみれ、刃が曲っているところが幾カ所もあったので、樹木の幹にあて叩き直した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府