連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 翌二十二日朝、眼前にかざすわが手も見分けられないほどの濃霧のなか、吉次越(きちじごえ)の峠を守っていた熊本隊が数百人の官軍に突然襲いかかられた。
 佐々友房(さっさともふさ)の率いる熊本隊は官軍の激烈な銃砲射撃に対抗し、必死の防戦をつづける。そのうちに吉次越の南後方に聳(そび)える三ノ岳(さんのたけ)から銃声が湧きおこった。
 三ノ岳は吉次越を中腹、半高山(はんこうやま)を北にひかえる一帯の最も高峯であった。半高山の東側に薩軍が木留本営を置いている。木留は熊本へむかう植木本道につながる支道に面する戦略上の重要拠点であった。
 三ノ岳の銃声は長くは続かず、官軍が占領したことを知らせるラッパの音が、幾度もくりかえし聞えてきた。三ノ岳が占領されると吉次越の陣所は、彼らの射撃を高所から浴び、防禦の手段がなくなる。
 木留本営から伝令が駆けつけてきて、佐々に三ノ岳が陥落し、防禦にあたっていた熊本隊の三個小隊は退却したと告げた。
「熊本五番小隊長は戦死、わが兵はすべて退却したので、吉次越だけが官軍に包囲されることになる。ただちに木留へ後退せよ」
 佐々は伝令の緊急退避命令を部下たちに知らせなかった。
 三ノ岳から直接の攻撃は、斜面の地形が四十度という険しさであるうえに粘土質であるのに妨げられ、実施されなかった。
 午後四時頃、官軍の攻勢が弱まり主力が後退してゆくのを見た佐々は偵察に出て敵の小隊らしい一団を見ると射撃し、斬りこんだ。官兵たちは小銃を投げ棄て逃走していった。
 三ノ岳は熊本隊の半隊長、分隊長二名が隊士十五人を率いて頂上に近い観音堂、十五人がさらに絶頂の権現山に崖を登って入り、官軍の頭上から射撃牽制した。
 二十三日の夜が明けそめた頃、熊本二番、八番小隊は山崎参謀の指揮のもと、三ノ岳観音堂へ登り、先行していた隊士らと合流し、山の中腹辺りに布陣していた官軍を攻撃し、彼らに占領されていた台場を取り戻した。
 官軍はこの日濃霧のなか、歩兵五十五個中隊、砲十四門、工兵二個中隊、警視隊の大兵力を動かし、熊本へ通じる植木街道の左右にひろがり支道を前進させた。
 第八連隊の三個中隊が霧のなかを半高山へむかい、薩軍堡塁を奪おうとした。午前六時、官軍が深い林のなかを伝い迫ってゆくと、何の物音も聞えず無人だと気を安んじたとたん薩摩示現流独得の長く尾を引く猿叫(えんきょう)といわれる気合が、静寂のなかから至るところに湧きあがり、一斉射撃が豪雨のように襲ってきた。官軍は近衛兵、抜刀隊を前進させ薩軍との白兵戦に対抗させるが、死傷者をふやすばかりであった。
 二十四日、二十五日、薩軍は白刃を振るい乱闘をつづける。濃霧を利して官軍陣地を攻撃しようとしたが、突然霧がはれて敵堡塁の真下で発見され、銃火を浴びてなお突撃し自滅する一団がいた。
 薩軍は畑の溝に身を隠し、官軍が迫ってくると突然立ちあがり抜刀攻撃をする。薩軍に白兵戦を挑まれると官軍は数倍の損害を強いられ退却せざるをえない。
 命を捨てる覚悟で殺到してくる薩軍が襲いかかると、どうしても体が縮みあがるのであった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府