連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 この先、熊本城を官軍に奪回され、全国有志が決起しなければ、わが運命は天意に従うばかりであった。隆盛が武力で政府を攻撃するときは、まったく違う作戦をたてていたであろう。桐野は武勇を誇るばかりの猪武者で、「議をいうな」と慎重派を罵倒し、屍山血河(しざんけつが)の猛勇のみを重んじる。
 官軍先鋒部隊を指揮する山川浩中佐は、戊辰戦争で健闘した元会津藩家老であった。彼は四月十四日の夜明けがたに、緑川と加勢川が合流する中洲に進出して、斥候に地形の偵察をさせた。
 斥候は報告した。
「川は深く、対岸には薩軍堡塁がつらなり、船団を仕立てねば攻撃は無理です。だが下流の川尻には左翼友軍が進出しており、敵陣に火焔があがり騒ぎ立つ様子であります」
 山川中佐は友軍が川尻を制圧したのち攻撃を続行しているのであろうと察し、昼過ぎに付近の村民に船を集めさせ緑川を渡って、熊本へ急行した。
 桐野の指揮する薩軍が官軍の圧迫に崩れ大敗し、木山町へ退却していった。官軍山川中佐の部隊は、午後四時に熊本城下の下馬橋(げばばし)まで進出した。
 薩兵はなお城下に残っていて花岡山へ集結しようとしたが、選抜隊の精鋭兵士らにあとを追わせたのち、城兵が長六橋(ちょうろくばし)に姿を見せた官軍を薩軍と見て射撃したが、山川中佐は兵にラッパを吹き整列させ、軍旗を押したてながら、大声で味方の来着を報じた。
 四月十四日は熊本城外に布陣して、薩軍の襲来にそなえていた山川部隊に遅れて到着した、衝背軍別働第一、第二旅団が入城した。植木方面から悪戦苦闘をかさね南下してきた正面軍もしだいに入城してきた。
 熊本鎮台が五十数日間の籠城の間にうけた損害は、死者百二十七人、負傷者四百十六人、合計五百四十三人。ほかに警視隊の死傷者百七十八人を加えると総計七百二十一人に及んだ。
 薩軍の負傷者は不明で、死者は百三人であった。この日熊本城に官軍衝背軍が入城したので、北方の薩軍、熊本隊は三ノ岳、木留方面に布陣していた諸勢が現陣地を午後一時に焼却し、全軍が木山へ退却していった。
 熊本隊佐々信房は友軍が木山へむかう道路を確保するため、大窪(おおくぼ)付近を警備した。夕方になって、田原坂、吉次越、鳥栖(とりのす〈現・合志市〉)から引き揚げてくる野村忍介(おしすけ)ら薩軍四千余が大窪を通過、熊本隊の先導で木山へ退却していった。
 豪雨のなか泥濘をこねまわし夜明けまえに木山に到着した薩軍、熊本隊は執拗に追撃してきて高所に火を放ち、狙撃してくる官軍に抵抗する態勢をととのえられず、相当の損害を強いられていた。
 彼らが親のように慕う西郷隆盛は、村田新八、池上四郎の指揮する護衛隊に守られ、すでに人吉(ひとよし)へむかい山中の険路を伝い去っていた。
 木山本営には桐野利秋がいて、総指揮官をつとめ、熊本隊隊長池辺吉十郎が参謀をつとめていた。熊本隊の小隊長らが本営に出向き今後の作戦について桐野の意向を聞こうとした。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府