連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 佐々ははじめて会った桐野について、つぎのように描写している。
「胸宇快活、言語明晰、襟を開き誠を推し、一見旧のごとく和気面に溢る。然(しか)れどもその肩を揚げ、気を吐くに当りては猛将勇卒仰ぎ見る能(あた)わざるものあり。
 容姿秀逸、躯幹健全、年まさに四十ばかり、腰に金銀装の大刀を帯び、威風凛然たり」
 桐野の颯爽たる姿が眼にうかぶ。
 熊本隊の幹部らは桐野に聞いた。
「熊本攻城は潰(つい)え、今日の形勢となれば、将軍はいかな対策を取られるのか」
 桐野は笑って答える。熊本人に対し薩摩訛はつかわない。
「死ぬ覚悟で戦うばかりじゃ。天道は是か非か、運命のむかうところは、またいかんともなしがたくごわす」
 戦いの帰趨は天道に従うほかには勝敗の道はないという桐野の言葉は彼の本質を告げていると佐々は思った。桐野は薩摩隼人の意地をつらぬき、近代装備の官軍を白刃でなぎ倒し、勇名をとどろかせての最後を遂げたいばかりであった。
 百姓、町人と身分の差別はほとんどなくなり、刀を捨て近代社会に融合し、貨幣経済のなかで生きてゆくよりは、武士のままで死んでゆきたいのである。
 軍議の席へ大津(おおづ)を襲った官軍別働第三旅団歩兵十二個中隊、砲兵、工兵各一個分隊を、別府隊が途中で草原に身を隠し待ち伏せていたところ、大敵が網にかかったという通報がきた。官軍は大砲を正面に進め大津の薩軍堡塁を粉砕するいきおいで迫ったが、別府隊が草原から襲いかかると、官軍は陣形を崩し二里余を走り、堡塁を捨て退却していったという。
 大津の右翼竹田街道には薩軍四個小隊が展開していたが、三里の間に布陣しており、一帯は見通しのいい草原である。東方の大津町の激戦の銃砲声は猛烈をきわめ、そのうち敵兵が湧くようにあらわれてきた。
 飫肥(おび)一番隊石川隊半隊長守永守は二十名の部下を畑の高地に伏せ、迫ってくる官軍に応射させていたが、全滅の危険は眼前にあった。このとき石川隊長が駆けつけてきて、はげました。
「しばらく支えよ。薩の援兵がじきに着く。俺も地蔵坂からここへ斬りこむぞ」
 守永は気をとりなおし兵を叱咤して半町ほど前進し、麦畑をはさんで敵塁まで七間(ななけん)(十二・七四メートル)に迫り、そこで「斬りこめ」と大声で叫んだ。
 官軍はうろたえ立ちあがるが、飫肥隊は突撃して半里余の間に官兵二十名を倒し捕虜一名を捕えた。
 この日夜明けがた、官軍が坂梨口に攻めてきた。薩軍二番大隊五番小隊の哨兵が発見し、本隊へ急報にむかう。その間に官兵二百五十名が堡塁に肉迫した。
 小隊長鎌田雄一は援兵を率い駆けつけた。薩兵の持つ銃弾はわずか二、三発で各自抜刀して白兵戦に持ちこむ。官軍が背後に回り包囲しかけたので鎌田が叫んだ。
「こうなりゃおしまいだ。敵のなかへ飛びこみ斬り死にしっせえ」
 鎌田は残る部下二十七人とともにラッパを吹き、突進した。敵はたちまち勢いを失い敗走した。
 薩軍は敵を追い散らし、笹倉の敵本営を焼き、銃器弾薬を奪い堡塁に戻った。突撃した将兵二十七名は、一人も損ずることなく全員帰還した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府