連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 熊本一番小隊を率いる佐々小隊長、古閑軍監らが盗人塚と甲佐街道を守っていたが、官軍の猛攻に堪えかね、南方の矢部へむかい退却をはじめた。官軍の迅速をきわめる追撃に堪えかねた彼らは、御船川の若宮渕に前途をさえぎられ、上流へ泳ぎ渡りかけると、背後、横手から官軍が狙撃し、渕のなかは屍体が押しあうように浮かび、川面は死傷者の血に染まった。
 佐々小隊長は退却を承知しなかった。
「この大敗を招き、何の面目もなか。ここはわれらの死に場所じゃ」
 佐々は盗人塚で斬り死にするつもりであったが、隊士に諫められた。
「いまの戦況を見ておらんとですか。味方の陣所にも御船町にも味方はおりまっしぇん。全滅したいのですか。すぐに逃げまっしゅ」
 佐々はいったん戦死ときめた心をひるがえし、呼子笛を吹き鳴らし、生き残った隊士を率いて山道を辿った。彼らは日没の前後に矢部の中心である浜町(はままち)に到着した。
 佐々小隊の戦死者は十五人、負傷者十六人で、輜重弾薬のすべてを失った。熊本隊のうち、再起不能の損害を受けたのは深野九番小隊で、戦死者二十八人、負傷者二十五人に及んだ。
 この日、薩軍総指揮官桐野利秋は、熊本城を奪回するため右翼大津町から中央の長嶺、左翼の建軍(たけみや)、保田窪に五里の戦線を展開し、残兵八千で三万余の官軍と決戦をこころみた。
 早朝からはじまった戦闘は、保田窪、長嶺の地形を利用した薩軍の抜刀攻撃に圧倒され、伏兵の奇襲に官兵は甚だしい損害を出すばかりであった。
 薩軍に参加した東京府士族落合直吉、秋田県士族中村恕助は保田窪、山口県士族川崎陽蔵は健軍で戦死した。川崎は薩軍六番大隊一番小隊に配属されたとき、小隊長に参加した理由を述べた。現代文でしるす。
「私は明治九年、前原一誠の義挙(萩の乱)に参加したが、失敗したとき諭された。不幸にして事ここに至ったが、しかし好機がなくなったわけではない。
 お前はしばらく生きながらえて、私の志を継げといわれ、その言葉に従い耐え忍びここまで生きてきた。
 さいわいに素志を遂げることができれば、死んで眼をつむるに足ることである」
 その志に感じいった薩将たちは彼の戦死を惜しむばかりであった。
 
 薩軍と官軍との戦闘は、熊本城が陥落するか否かの一点が勝敗の分れめであった。薩軍が熊本城を取れば、九州全土を薩軍が掌握できる。
 そうなれば二万余の薩軍の兵力は増加し、せいぜい五万余の官軍兵力は前途の困難を予想して協力者である鎮台兵、巡査、壮士が減少にむかうであろう。
 そうなれば廃藩置県によりすべての特権を失う全国不平士族がどれほど薩軍に協力を申しいれてくるか、予測もできない。
 明治十年四月十五日まで、薩軍が官軍の銃砲撃に身をさらし、白兵突撃の死闘を続けたのは、熊本城を占領すれば政府を潰滅させることができる見通しが立つためであった。
 萩原延寿著『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄(13・西南戦争)』には西郷を中心とする私学校党の決起について、きわめて重要な内容の記述がある。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府