連載
「まぼろしの維新」
第十三章 手負い獅子 津本 陽 Yo Tsumoto

 駐日イギリス公使パークスは、西郷を中核とする私学校党の行動につき、明治十年三月十二日付のイギリス、ダービー外相への報告書に、下記の観察、推測を記した。
「薩摩士族は自分たちの力を過信してはいなかったか」
「薩摩士族は自藩の威信とその指導者(西郷)の名声と、この二つのものへの信頼によって、判断を誤りはしなかったか」
「二、三年前ならば、かれらは江戸へ進軍できたかも知れないが、現在では国論によって大いに支持されないかぎり、かかる目標がなし遂げられる見込みはない。
 しかし、サトウ氏が聞かされたように、これこそがかれらの目的なのであり、かれらは政府が驚愕のあまり、本気で抵抗を試みないだろうと信じ込んでいる」
「かれらはさらにつぎのことを当てにしている。すなわち、陸海軍が政府に不忠をはたらくことであるが、いままでのところ、かかることは起こっていない。つぎに、大部分が百姓からの徴募兵である政府軍が、社会的に上位の士族階級と戦闘を交えるさいの恐怖心である」
「しかしながら、薩摩士族は、おそらくつぎの点を知ることになるだろう。すなわち、下層階級の出身者といえども、良き兵士となりうること。そして国民一般は、士族階級が自分たちとおなじ社会的地位に引き下げられたことを承認していることである」(萩原氏訳文の通り)
 萩原氏は同年三月十日付のダービー外相にあてた報告書に西郷と私学校党決起について、もっとも深刻で最大の謎とされる無謀さについて指摘している。
「船舶がなければ実現不可能なかかる計画をたてるとは、叛徒が自国の状態について奇妙なほど無知であり、たとえ自分たちの言い分にきわめて不利な結果を招こうとも、ためらうことなく絶望的な行動に出ることを暴露している」
 パークスは同年二月二十七日付のダービー外相あての書簡にしるした。
「西郷とその共謀者は、自分たちの手段に合法性の外観を与えるべく、自分たちは御門(みかど)の将軍として行動しているのであると宣言しているが、これは納得しがたいばかりでなく、奇異である。おそらく真の原因は、いま大胆な一撃を加えて政府を威圧しておかなければ、自分たちの影響力を保持する機会はまもなく失われると、薩摩士族が考えていることである」
 パークスのこの判断は、叛乱は西郷がおこしたのではない。かれを取り巻く壮士らがおこしたという推測が彼の心中にゆらぐことなくあったのであろうと萩原氏は見ている。
 その理由として、パークスの訓令に従いアーネスト・サトウが、明治十年二月、鹿児島で病院、医学校の運営にあたっている旧友ウィリアム・ウィリスを訪れたときの見聞を指摘されているのである。ウィリスは文久二年(一八六二)末にイギリス公使館付医官として来日したときからのサトウの友人である。
 サトウは何のためにウィリスを訪問したのか。まもなく蜂起するであろう私学校党の本拠地である鹿児島からウィリスとその家族を一日も早く避難させるためであったのであろう。それよりももっとさし迫った要務は、西郷の本意を知りたかったことであろう。
 隆盛は私学校、ウィリスは病院にいるが、言語が薩摩弁と英語ではほとんど通じない。サトウは隆盛の本心をほぼ理解できるほど日本語に通じている。パークスは隆盛がいま置かれている立場を、サトウに直接うちあけてもらいたいと望んでいたにちがいない。
 隆盛も鹿児島にきたサトウとその背後のパークスの願望を正確に察知していた。私学校党の火薬庫襲撃事件はすでにおこっていたが、万余の薩軍はまだ動いていない。挙兵すれば動員兵数ははるかにふえる。戦死するのは官軍、薩軍ともに今後の日本を支える若者たちであった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府