連載
「まぼろしの維新」
第十四章 敗走 津本 陽 Yo Tsumoto

 佐々、深野の熊本二個中隊は熊本と鹿児島県境の鬼神峠を守ることになった。険しい山路を歩き続け、日が暮れると牛馬の小屋をみつけ、雨に濡れつつ眠った。
 五月二十日、水俣港に軍艦が入港し、別働第三旅団といわれる官軍大部隊が上陸する状況が山頂から見えた。官軍の行動は敏活で豊富な弾薬を惜しげもなく消費し、慓悍な薩軍も弾幕に包まれると死傷者の山を築くばかりであった。
 それでも二十一日には薩軍、熊本隊二十七個中隊が、山野村まで侵入してきた官軍を攻め、潰走する敵を追い、水俣まで五里の深川村へ追いつめたが、弾薬が欠乏してきた。
 官軍は敵の銃声が絶えたのを知ると、踏みとどまって一斉射撃の弾幕を張り、形勢は一瞬に変化した。薩軍は勝敗の岐路に立つとき、弾薬、食糧の欠乏に行動を制約され、茨のようにからみつかれ身動きがとれないまま、銃弾になぎ倒された。
 後退した薩軍は水俣街道を扼(やく)する石坂、鬼神山、烏帽子岳などの要害に布陣して、烏帽子岳に本営を置く。西方の海岸からの攻撃にそなえ、辺見雷撃隊隊長が指揮をとった。熊本の二個中隊、熊本協同隊も協力して戦うことになった。
「戦をするというたところで、鉄砲玉がなかけん、打つ手はなかろうたい」
 熊本隊の兵士たちは、ここまではたらいたうえは、もはや勝ちめのない戦闘に狩りだされ、死ぬまではたらく必要はないと考えていた。弾薬が欠乏し、決戦の前に支給される銃弾は六発から多くても十発である。
 官軍に狩猟の楽しみを与えてやるよりは、白刃をつらねて突進し、命と引きかえに撫で斬りの快を味わうべしという声が多かったのは、敵の弾幕に駆け入り無駄に命を落とした朋友知己の最後を、あまりにも多く見たからであった。
 この頃、世論は西郷に対する同情に傾いていた。島津久光、同忠義は四月一日付で政府に建白書を提出していた。そのいい分は聞き捨てにできないものであった。
「西郷が政府訊問のため、多数の兵を連れ東京へむかおうとしたのは、国法を犯した罪である。だが中原少警部らが大久保利通、川路利良の内命をうけ、西郷と政府をひきはなす策をとったことを、政府が妄説と判断したのは、おおいに疑わしい。
 鹿児島でおこったことの真偽が、遠い東京でなぜ早くわかったのか。政府は休戦命令を出され、西郷らを東京へ護送し、大久保、川路をも出頭させ、裁判のうえで、真実の罪あるものを罰すべきである」
 木戸孝允も休戦すべきであると主張していた。開戦に至った経緯の矛盾点を木戸はつく。
「この戦争がおこって二カ月余のうちに、双方の将兵の死傷者は二万に及んだ。人民の財産の損失は幾千万円だ。
 戦のおこった原因は、大久保利通、川路利良らが、西郷ほか数人の暗殺をたくらんだことだけだ。
 もし政府が西郷らと大久保、川路らを会わせ、事件の真相をあきらかにすれば、それで事は結着し、事実無根であればその場で事は結着しただろう。
 大久保に内務卿を引退して、公平な措置をとってもらいたい。そうすれば暴動の処分についても政府は相応の処置をとったといえるだろう」
 官軍第三旅団は薩軍、熊本隊の水俣街道防衛線を撃破するため、水俣港から軍隊を続々と上陸させ、山地に展開する敵にいたるところで猛攻をしかけた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府