連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 桐野利秋ら薩軍幹部を従えた西郷隆盛は人吉(ひとよし)が陥落する前に脱出し、五月三十一日に宮崎へ到着した。宮崎県は明治六年に設けられたが、同九年に鹿児島県に合併されていた。
 そのため薩軍は宮崎に本営を置くと、鹿児島県宮崎支庁を軍務所、大区事務所は郡代所、戸長(こちょう)役所は支郡所と名称を変更して県内に軍政を敷いた。
 高岡、佐土原(さどわら)、高鍋には弾薬製造所、佐土原には紙幣製造所を設置して、新兵募集につとめる。長期にわたる作戦をおこない、戦況を挽回させたいという薩軍の懸命の方策であったが、私学校党の精鋭は二月からわずか三カ月の間に大半が倒れ、弾薬を製造するにも資金に窮しているので、西郷札と称する軍票をつくらねばならない現状であった。
 薩軍、熊本隊の男たちは窮地に陥ったいま、命を西郷のもとになげうち、正義の立場をつらぬこうとしていた。降伏して処刑されたり、牢獄に陥れられるような恥かしいおこないをすれば、武人として生きてきた立場が消えうせる。
 そのような前途を見限り、西郷(せご)どんとともに最後まで行動すれば、わが本分はつらぬいたことになるという、晴れわたった蒼穹(そうきゅう)を眺めるような、奇妙な楽観が彼らのうちにみなぎっている。
 万余の朋輩が命を捨ててきた戦場の体験は彼らの脳中にとどまって去らないため、命を落すことについてのためらい、恐怖はまったくなかった。
 そのため決死隊を募れば、希望者はいくらでもあらわれた。
 だが敵と激突したところで、敗戦が続くばかりであった。生き残った薩軍、党薩諸隊の兵力は三千五百人、食糧、衣服、弾薬、刀剣が不足し、草鞋(わらじ)さえなく素足である。
 武装して一日に五里、十里をはだしで走る者が体力を保つためには充分な食事をとらねばならない。だが現状では飯と梅干、沢庵で空腹を満たせば極上のしあわせとせねばならない。官軍の堡塁を攻め落し、四斗樽に詰めた酒を奪えば、士気をふるいおこすための乱酔を楽しめたが、醒めればわが身は乞食(こじき)のように垢(あか)と塵(ちり)にまみれていた。戦えばかならず負けるのは、三千余の兵力で五万の官軍と激突し、弾薬不足に陥るためであった。
 当時の戦況を報じる新聞は、薩軍の情況を連日掲載していた。辺見十郎太の行動を降伏した薩兵が語っている。
「辺見は水俣街道乱戦の頃、頭部に銃弾を受けたが、重傷ではなかったのか、その後は包帯をしたまま昼夜をわかたず四方に出没して日向(ひゅうが)、大隈地方の住民を脅し資金、米麦を強奪し凶暴な行動をかさねている」
 水俣口で降伏した熊本隊兵士は、西郷隆盛と桐野利秋の意見が合わなかったことを供述している。熊本城攻囲について桐野は主張した。
「熊本ただ一城のために多数の兵士を用い長期の包囲を行うよりも、たとえ多少の損害が出ても地雷火、銃砲の危険を冒し、四方から蟻のように城塁にとりつき、一気に陥落させるべきである」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府