連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 西郷は反論した。
「城は堅城で一気には抜けない。かならず数千の壮士を失うことになるだろう。遠巻きにして四方からくる援軍を撃破し、城兵が弾薬食糧に窮し、降参するのを待てばよい」
 熊本から退却するときも、西郷隆盛は桐野らにすすめた。
「奮闘苦戦の甲斐なく、彼我数万の壮士らを弾雨のなかに死傷させるに至った。まことに何の益もない結果となった。わが党の主立った数人がいま切腹して、壮士らの生命を救おうではないか」
 桐野は反対した。
「勝敗は兵家の常である。いわんやいまだまったく兵気が挫折したというわけでもない。熊本、宮崎へかけての険阻な山地に布陣して好機を待ち、敵を潰滅する。
 戦場に一敗したためにうろたえ肝を失い、切腹などできようか」
 隆盛は憮然として言葉もなかった。その後彼は作戦指導方針の相談に一切応じることなく、桐野、辺見らの作戦行動を黙過するようになった。
 隆盛が人吉から宮崎へ移動した時の行装を『兵事新聞』が報じている。絣(かすり)の着物に博多帯をしめ、黄金造りの大刀を持ち、駕籠(かご)に乗り、愛犬四匹を率いていた。
 その前後には十人ほどの護衛兵が従い、間道伝いに米良(めら)の方向へ急いでいたそうである。
 人吉から撤退した薩兵は、山間を通行するうち、彼らを掃蕩(そうとう)する官軍があまりにも増加してきたので、捕虜となるよりも斬り死にを遂げようとして、敵陣附近を徘徊して見咎められると抜刀して飛びかかり、撃たれて命を落す哀れな最後を遂げた。
 薩軍、熊本隊は作戦を立てるにしても銃弾が極端に減少しているので、遭遇戦で官軍めがけて斬りこむほかに何の方策もたてられなくなった。
 熊本隊は玄米、味噌、大根、梅干などで空腹を支え、敵が襲ってくれば銃撃は一度に二十発、大挙襲撃してきたときは四十発を発射するのみで、そのうえで切迫した時は抜刀し、堡塁を乗り越えて斬りあうほかに手段がなかった。
 負傷すれば野戦病院へゆくが、病院は薬品、包帯までが欠乏し、鹿児島からきた洋方医がいたとしても、手術の設備などまったくない。
 患者でひしめきあう土間に寝ていても患部は悪化し、官軍に占領された時は足手まといになるので延命処置の方針はとられず、全員殺害されるばかりであった。
 このような情況で破滅を眼前にしている薩軍と党薩諸隊のうちに、兵力において十数倍の官軍に最後の力をふりしぼった会戦をおこない、いさぎよい最後を遂げようという意見と、いま何の成果もあげず戦死するよりも、いったん降伏して牢獄にとらわれる恥辱に甘んじ、後日の再挙を期すべきだという意見が出てきても当然であった。
 明治十年七月六日、東京日日新聞はつぎの記事を掲載した。(現代文で記す)
「川路大警視は去る三日の午後三時三十分西京(京都)へ到着された。この時大臣、参議は停車場まで出迎えた。
 大警視はただちに御所へ参内し、天皇の御前に召され、親しく勅語をいただいた。終って酒肴を賜(たまわ)り退出された。
 翌四日にふたたび御前に召され、地図をひらいて戦地の実況を申しあげた」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府