連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 古閑は入院した佐々にかわり第三中隊を率い、一進一退の戦法で後退し横川に着いた。辺見十郎太が馬に乗ってあらわれ、古閑監事に大声で話しかけてきた。
「恥知らずは、命が惜しゅうて逃げ散った。この場が俺の死に場所じゃ。よか時にきてくれたぞ。ここで一緒に死にもんそ(死んでしまおう)」
 古閑は嘆息して答えた。
「貴公の意気勇猛なることは他に類を見ないが、惜しむらくは謀略に疎いたい」
 辺見は空を仰いで嘆いた。
「ああ俺は誰の手によって死ぬのか」
 熊本隊は残兵が集結して退却してゆくと、官軍が左右の高所から激しい銃撃を浴びせてきた。
 二番中隊長北村盛純は都城へ退却する途中、腹に貫通銃創を負い、都城病院へ入院するまでほとんど意識がなく、病床に身を横たえてまもなく息絶えた。
 北村は田原坂の戦の頃、陣中から三児を抱える妻につぎの歌をおくっていた。
「遠近(おちこち)に宿も定めぬ草枕 むすぶ夢さえひまなかりけり」
 退却の道程は梅雨があがると暑気が激しく山獄がつらなり、谿谷の河原に田畑を耕し、芋、麦、野菜などを植える程度の収穫しかない土地で、農民の食物はほとんどが薩摩芋だけで、白米を常食とする者はめったにいない富豪といわれていた。諸村住民の生活を見れば、赤貧というほかはなかった。
 ひとつの村の人家はおよそ六、七百戸で、そのうち小作地の収入で暮らす士族が、ほとんどであった。
 この附近は生活が窮屈なので、二月の私学校党蜂起のときは従軍する者がわずかであったが、その後辺見らが薩軍の損害がいちじるしいため、新兵徴集をきびしくおこなったので、出陣した者はおよそ七百人に達した。
 一家から兄弟二人が出征し、父子三人が出た家もある。村内士族のうちで青壮年の男子の姿は目にしないようになっていた。
 家に残った老幼婦女子と平民(農夫)たちは兵乱を避けて山中に身を隠したので、村内に居住する平農民は雨夜の星のようである。
 ふだんから何事も生活するうえで不便であるのに、いまはなおさら不便をきわめ、日用品さえ手に入らない状態である。
 しかし新聞社の特派員たちはいう。
「現地の様子を察すると、人心はもはや落着き平穏となっている。彼らは官軍の来攻をよろこんでいる。まもなく避難先から戻り生活の不便も解消されるだろう」
 薩軍では輜重(しちょう)に用いる牛馬車輌が不足をきわめていた。火砲弾薬が底をついており、一度の戦闘に用いる銃弾が、各自最多で十発と激減しているのは、敗戦をかさね弾薬を棄てざるを得ないためであった。
 薩軍は数倍の官軍に前後左右から追いつめられ、潰走するとき命よりも大切に扱わねばならない軍需品を投げ棄て放火して去った。
 加治木、溝辺、横川から日向宮崎へ撤退するとき、三千樽の硝石、大量の米を遺棄したのは、薩軍、党薩諸隊が疲れはて、火砲に窮し白兵戦闘のみで勝機をつかめなくなった、絶望の断崖にむかい歩を進めている事実を証するものであった。
 七月になって政府は大阪で紺脚絆(きゃはん)一万足、紺足袋五万足を戦地へ急送した。薩軍は故郷を出発した軍服を、梅雨が明けても身につけていたが、官軍のうちでも急遽出撃した警視隊は冬服で激戦苦闘をかさねてきた。それも四分五裂したものを縫いあわせた、軍服の原形をとどめないものであった。薩軍は兵士というよりも浮浪者としか見えない外見であった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府