連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 幸田、本城、馬越と退却してゆく薩軍、熊本隊は周囲の山腹から官兵の狙撃を浴び、死傷者の数をふやしつつ、横川から加治木本道を南下しようとした。朝から急襲をうけ追撃されているので、食事もろくにとれず喉が渇いても水も飲む余裕がなく、薩軍が確保しているであろう加治木へひたすら歩く。
 だが途中で薩軍の監軍(かんぐん)という士官がいて情報を知らされた。
「加治木ははや敗れちょいもす。そこを守っちょった薩摩勢は塩浸(しおびたし)へ逃げもした」
 古閑はただちに踊(おどり)村へむかった。彼に従う兵は数十人に減っていた。しばらく住民の案内で踊村への間道を伝ったが、途中で附近の村人から急報をうけた。
「官軍が前にまわりこんじょいもす。こん辺りは山でん林でん官軍がおり、蟻一匹も通れもはん」
 斥候に附近を探索させると、シャベルを手にした官兵が数百人、山上で堡塁を構築しているという。
 死地にむかうためらいの声が部下の間に湧きおこったので、古閑監事が励ました。
「人生わずか五十年ばい。しかし英雄の名は千年たっても朽ちぬ。大丈夫(ますらお)が一時の繁栄を盗みとって末代に伝えるべき名声を捨てることができるか。
 しかも死地に生き得るのは兵家のこのうえもない手柄というではないか。いままさに勝敗を天の命ずるに任せ、奮激地を蹴って敵中を突破するのである。
 貴公らの中で名を惜しみ、俺と同行する者はともにゆこう。生を惜しみ逐電(ちくでん)しようとする者は、ただちに立ち去れ」
 隊士らは高声に答えた。
「われらは戦に従い常に死を覚悟しておるばってん、この期(ご)に及んで遁走して長命を望むことはなか。死生は監事とともにいたすまでたい」
 古閑の率いる第三中隊の残兵は、前後左右に官軍諸隊の姿が見える街道を踊村にむかったが、敵はなぜか見ているだけで攻撃してこなかった。
 日が暮れかけ、銃器の照準をあわせにくくなっていたうえに、古閑たちが小集団で堂々と街道を南下してゆくのを見て、何らかの作戦をしかけてくるのではないかと、警戒したのであろう。
 六月二十日に大口を退却した薩軍と熊本隊は月末まで本城、湯之尾、馬越の戦線で必死の抵抗を続けていたが、後退につぐ後退のあいだに銃器弾薬の補給が杜絶したため、力尽きた。
 踊村には熊本隊のほかに薩軍、熊本協同隊、雷撃隊、干城(かんじょう)隊、破竹隊が布陣しており、加治木在陣の振武隊、行進隊とも連絡を通じた。
 踊村で布陣した熊本隊陣所は天降川(あまふりがわ)の岸壁に面しており、近所に塩浸温泉があった。数日の間、官軍の銃砲声から遠ざかっていたので、垢にまみれた隊士たちは暇をみては温泉に通った。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府