連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 天降川では鮎などの川魚がよく釣れた。佐々友房は大口病院から戦線の後退にともない横川病院へ移り、さらに大窪(おおくぼ)病院に移った。
 味方の負傷者はふえるばかりで、どの町村の宿屋も臨時病院とされ、混雑していた。七月の宮崎、鹿児島は戸外へ出ると射すくめられるような日射しが照りつけてきて、のみ・しらみが湧き、藪蚊が身辺を飛びまわり、傷の痛みを堪(こら)える負傷兵にとっては、堪(た)えられない悪環境である。蚊帳の取りあいから刃傷沙汰までおこる始末であった。
 薩軍、党薩諸隊の間には、この先戦況が好転する見込みはまったくなく、薩摩の南端まで追いつめられ全滅するという噂が、人吉敗戦ののちひろまっていた。
 西郷隆盛が自害しようとしたという記事が『西海新聞』に掲載されたのも、その頃であった。つぎのような内容である。
「西郷隆盛はさきに熊本城を包囲し、川尻に本営を置いたときに早くも戦機が去ったことを知って腹を切ろうとした。桐野利秋が懸命にとめたのでようやく思いとどまったが、そののちもくりかえし切腹する気配をあらわすことがあったので、そんな事がおこっては大変だと桐野は常に六、七名の屈強な壮士を身辺に置いて護衛させているそうである」
 当時、脱走兵がふえてくる一方であったので、桐野利秋はつぎのような命令を発した。
 一、兵器を捨て逃亡する者。
 二、戦場で兵士の任務を果さない者。
 三、行軍中あるいは戦闘の際に、住民に乱暴狼藉をはたらく者。
 これらの罪を犯した者は、全員切腹の刑に処する。
 この命令を発したあと、別府晋介、辺見十郎太ら薩軍幹部は戦闘がはじまると、堡塁のなかで抜刀して身構え、麾下隊士のなかに敵に降伏するか卑怯のふるまいをする者の首を、その場で打ち落し、士気を鼓舞することも辞さなかったという。
 七月二日、佐々友房のいる大窪病院に熊本隊参謀桜田惣四郎が入院してきた。桜田は布団に身を横たえたまま佐々の手を握りしめていった。
「戦の様子を見りゃ、総崩れになるのは間近たい。俺は年寄りで合戦の場に出ても貴公らの足手まといになるばっかりじゃ。
 ばってん刀折れ弾丸も尽きたときに、賊としての責めを受けるのは俺と池辺大隊長の二人だけでよかたい。
 国家の事は今度の一挙だけでは終らんばい。従軍した子弟のうちには俊才も多く残っとるばい。玉石混淆で死なせるのは惜しか。
 貴公はまだ若く鋭い気性を持っとるばってん、かくなるうえは若い味方をできるだけ多く故郷へ帰還させてやってもらいたか」
 佐々は桜田を慰める言葉を思いつかないまま、落涙しつつ抱きあうばかりであった。
 佐々は戦況の変化に従い霧島山麓の各地の病院を移動する日を送った。彼は霧島の霊峰を仰いで、敗走の感慨をしるす一詩をものした。
 沐雨櫛風(もくうしっぷう) 半歳を過ぎ、廿余変の戦 幾人か斃(たお)る。
 戎衣健馬(じゅういけんば) 日州の途。
 仰ぎ見る 霧山の天際(てんさい)に聳ゆるを。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府