連載
「まぼろしの維新」
第十五章 日向路の雨 津本 陽 Yo Tsumoto

 熊本隊は弾薬が尽きていたが、退却した官軍の陣地で敵の弾薬箱をいくつか捕獲した。辺見十郎太はおおいによろこび、酒数樽を贈り、健闘をほめたたえた。
 だが薩軍伝令が山上の高所を制圧していた味方にさらに進出せよとの辺見の命令を、下山せよと、まちがって伝えたので、薩軍は掌握していた大窪の要地を手離し退却した。
 官軍はたちまち高所に進出し、田口の岡を左翼から猛射した。熊本隊と熊本協同隊は狙撃を逃れる樹林のすくない陣所を捨て退却した。
 辺見雷撃大隊長は、友軍に誤報を伝えた伝令を熊本隊隊士らの眼前で切腹させた。
 薩軍は熊本隊とともに霧島山を防衛線にとりいれるつもりであったが、広大な地形が防衛に困難で、山中へ入れば味方の諸隊と連絡をとりにくいので、七月九日の夜、霧島から退却した熊本隊は士気沈滞した薩軍とともに十文字、田野、庄内、財部(たからべ)と転戦した。水俣から苦闘をかさねてきた宿敵第三旅団に追われ、さらに出水から鹿児島へ攻撃にむかい、同地の薩軍を一掃して加治木、国分を席巻して北上する別働第三旅団に挟撃され敗北を重ね、霧島山南麓一帯で戦いつつ、都城防衛線につらなる正部(しょうぶ)村に布陣していた。
 このとき鹿児島、国分の薩軍は優勢な官軍の陸路からの火力に屈し、撤退していた。
 薩軍は主力を財部、庄内に置き、高崎、高原(たかはる)を右翼、福山、牛根、志布志を左翼とする長大な都城防衛線を展開していた。
 東京日日新聞の七月三日に発した報道はつぎのような鹿児島の現状を伝えている。(現代文でしるす)
「私はこれまで鹿児島城下に滞在して、当地の実況を探訪して報道してきた。
 いまや城下を囲んでいた賊兵は、守りを捨てて大隅日向へ逃走した。
 それまで鹿児島を守っていた官軍は、賊兵を追撃する作戦行動をとった。第四旅団は重富、別働第一旅団は大隅をめざし、別働第三旅団のうち一部は蒲生へと進撃した。
 鹿児島に在陣する大山巌少将は帰京した川路少将にかわり別働第三旅団を指揮するため、陸軍士官数名と警視遊撃隊一個小隊を率い、七月二日の午前八時蒲生へ出発した。
 途中の吉田で昼食をとり、午後四時に蒲生に到着した。道程はおよそ五里であったが、平坦な道路はわずかで山腹を伝う嶮路が多く、谷川を徒歩で渡ったことも六、七回、断崖を伝って歩いたことも数えきれなかった。
 暑気はきわめてはげしく、太陽は頭上から照りつけ喉はかわき息はきれ、水を浴びたように汗をかく将兵の苦労はいうに忍びないほどであった。
 蒲生には別働第二旅団本営があり、大山少将がむかった蒲生郷は深い山中にあるが一条の小川が涼やかな音をたてて流れ、大隅の辺地ではあるが、風俗・言語は鹿児島とまったく変らない。
 蒲生の人家は士族屋敷六百戸、町家はわずか五、六十戸で学問を身につけた住民が多かったのである。ここでは私学校党がふるわず、薩軍に従軍した者がきわめて少なかったが、辺見十郎太の募兵活動によって三月以降に従軍した士族が七百人に達していた」
 蒲生の住民は官軍の進出をよろこんでいた。薩軍の情報を集める将校たちは、西郷隆盛が宮崎本営で病むこともなく平穏な日常を過ごし、桐野利秋は諸陣地に連日馬を走らせ、諸隊の指揮に奔走していると報告してきた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府