連載
「まぼろしの維新」
第十六章 沈む陽(ひ) 津本 陽 Yo Tsumoto

 熊本隊はここで熊本協同隊、竜口隊とともに海岸防衛にあたった。細島は百数十戸の町家がつらなる漁港で、官軍の追撃を受け敗走を続けてきた熊本隊は、幸い八日まで敵があらわれることもなく、身体を休めることができた。
 隊士は都城陥落以来、惨敗をつづけ、池辺大隊長が高鍋の戦場で行方不明となり士気も落ちこんでいた。傷病者はふえるばかりで、戦場ではたらける健常者は激減していた。
 人吉では全軍五個中隊の兵力は六百名に近かったが、いまはもっとも員数の多い中隊で百名、すくない中隊は四、五十名である。
 このため新規の大隊長を選挙できめることとし、監軍山崎定平が選出された。
 山崎は監軍、参謀以下分隊長に至るまで新規に任命する。中隊は一番、三番をあわせ一番中隊、二番、四番、五番をあわせ二番中隊とした。
 佐々友房ら熊本隊の負傷者は延岡城下の病院にいて、治療に専念していた。看護に当るのは雲井嶽ら力士たちであった。
 佐々は病床で傷病兵たちにいった。
「敵は五万、味方はせいぜい三千五百だ。それに新鋭兵器を持ち、兵糧弾薬は余るほど持っとるたい。連戦連勝で気勢があがっとる。あと五、六日も静かにしとらん。ここへ押しこんでくるぞ」
 官軍の動きは佐々の推測をうわまわっていた。八月五日早朝、官軍第三、第四旅団は美々津川に船橋をこしらえ、対岸へ渡河しようとした。
 対岸の笹野を守っていた薩軍の辺見十郎太、中島健彦らは橋を渡りかけた官軍を引き寄せるため、彼らの半数が橋を渡るまで待機していて、一斉射撃をした。逃げ場のない官兵たちの多くが、川へ落ちて死傷者が続出し、退却した。
 この勝報は味方の諸隊に届けられたが、薩肥の諸隊は味方の武運が蠟燭の燃え尽きるまえの、またたきに過ぎないことを知っていた。村田新八は高鍋陥落のあと、身辺に従っていた部下に鹿児島へ帰るように告げ、三人のわが幼児を儂の死後に育成し、この先わが神州が洋夷(ようい)に攻められたとき、わが志を継ぎ天皇陛下に命を捧げしめよといった。
 部下は村田の形見として金時計と軍服を預かり、潜行して鹿児島へ帰っていった。
 八月六日、西郷隆盛は筆をふるって薩軍、党薩諸隊に対し『告諭書』を記し、諸隊長に渡した。
「各隊尽力の故(ゆえ)を以て、既に半歳の戦争に及び候。勝算目前に見え候折柄(おりから)、遂(つい)に兵気相衰え、終(つい)に窮迫余地なきに至り候儀は、遺憾の至りに候。もっとも兵の多寡(たか)強弱に於ては、差異これなく、一歩たりとも進んで斃(たお)れ尽し、後世に恥辱を残さざるよう、御教示給わるべく候也」
 熊本隊士たちは、目前に迫った官軍の大兵との決戦に臨み、八月七日に軍議をひらき、戦闘方針の変更を決議した。
「このまま薩軍とともに戦っても、冬までには全滅する。いま戦場を豊後口と定め、熊本隊が先鋒となって進撃の前途を切りひらきたい」
 大隊長山崎定平、桜田参謀は同意して、薩軍首脳の桐野利秋、村田新八に相談すると、快諾してくれた。熊本隊の壮士たちが最後を遂げる場所として熊本に近い場所を選びたい気持ちが、彼らにも通じていた。
 官軍は薩軍本営に情報が届かないほど迅速に戦線をひろげていた。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府