連載
「まぼろしの維新」
第十六章 沈む陽(ひ) 津本 陽 Yo Tsumoto

 八月十三日、熊本隊はあいつぐ敗戦に散り散りになった兵をまとめ、薩軍の残兵とともに延岡に集結した。前夜に中村を進発し、闇中を行進して夜明けまえに延岡に到着すると朝食をつくる間もなく、曽木口から五ヶ瀬川沿いに下ってきた官軍第一旅団が、延岡に突入してきた。熊本隊は桐野利秋の率いる薩軍とともに、市中の百間橋付近で戦ったが、官軍の新鋭銃器の射撃に将士をなぎ倒された。損害が続出するなか、官軍の一部が薩軍の背後にまわりこむ動きをおこしたので、薩軍と党薩諸隊は延岡を退却して熊谷峠(和田越)へ移動した。
 官軍第二、別働第二旅団が山道を進み、第三、第四、新撰旅団が海岸沿いの門川道をとって延岡に入った。日向灘からは日進、清輝、鳳翔、孟春、丁卯ら軍艦が、薩軍に砲撃の雨を降らせた。
 和田越は熊谷峠とも呼ばれ、延岡の北方約四キロの豊後街道の要地で、左右に山嶺がつらなる高所にあり、防衛拠点としてきわめてすぐれた地形にめぐまれている。
 和田越から北へ四キロ余り離れ、可愛岳(えのだけ)連峰に三方を囲まれた長井村という、四キロ四方ほどの寒村があった。
 薩軍、党薩諸隊の本営、輜重、弾薬製造所、病院がすべて長井村に集結した。八月十四日の夜、薩軍桐野、村田、池上、別府ら主立った将領が軍議をひらいた。
 それまで戦闘について何の意見も口にしなかった西郷隆盛が延岡奪還を主張した。
「わが軍がこんさびれた土地にちぢまっちょってん、士気は振るうこつはなかじゃろ。いま豊後へ乗りだすのも無理じゃなかか、皆の力をふりしぼって延岡を取り戻し、糧米に窮することのなか暮らしをせにゃならん」
 同座の者は同意の声をあげ、和田越での決戦に決した。
 隆盛は官軍五万人に追いつめられた三千五百人の味方の士卒が、武器、衣食に窮したいま、決戦を挑んでも潰滅の一途を辿るのみであるのを知っている。
 このうえ戦闘しつつ豊後のあちこちを逃げまわり、敗北を重ねつつ全滅に至るのは、武勇を誇って命をなげうってきた若者たちにとってあまりに悲惨であると思っていた。
 延岡を最後の死に場所として彼らに与え、これまで生きていたために敵味方の兵を死なせる結果を招いたわが身を、砲火に砕け散らせば、このうえの後始末はないと彼は内心で望んでいた。そのため先手の指揮は自分がとると主張した。この夜、官軍は各旅団長を集め、翌朝からの薩軍包囲撃滅作戦の部署を定めた。
 熊本隊の佐々友房は長井村の病院に収容され、翌日の決戦にそなえ駕籠で熊田に避難したが、官軍が進撃してきたので長井村に戻り、敵の砲撃に身をさらすことになった。
 八月十五日の明けがた、薩肥全軍三千五百名は和田越に集結した。全軍の半ばを和田越に配置し、半ばを左右の斜面に待機させる。
 官軍は号砲三発が轟き渡ると、喊声をあげ突撃してきた。午前八時薩軍は高所から駆け下り、官軍の中央から左翼へ突入すると、官軍も必死に応戦し、もつれあって激しく斬りあう。そのうちに官軍の援兵が山野を埋め押し寄せてきたので、薩軍は押し戻され和田越の陣地にたてこもる。
 官軍は薩軍が陣地から狙撃すると確実に被弾し倒れるが、屈せず斜面を駆け登り、塁壁に達すると刀と銃剣との白兵戦がはじまる。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府