連載
「まぼろしの維新」
第十七章 城山へ 津本 陽 Yo Tsumoto

 午前五時頃、一発の銃声が静寂をつんざくとともに、突撃を指示する英国式ラッパが響きわたる。
 官兵らがはね起きる枕頭(ちんとう)へ、喊声とともに薩軍が殺倒してきた。精強な薩兵たち四、五百人は宙を飛んで官兵の油断をつき、斬りまくる。
 三好、野津両少将は、参謀将校、護衛兵らとともにかろうじて猛攻を逃れ、退却した。
 万余の官軍は薩軍の寡兵(かへい)に追い散らされ、迫田(さこた)少佐以下死傷者・行方不明者は百五十一名を数えた。薩軍は弾丸三万発、砲一門を奪った。
 長井村を脱出した虎豹のような薩軍は、八月十九日、祝子(ほうり)川で官軍を一蹴し、同月二十一日正午、三田井に到着した。
 辺見十郎太は党薩諸隊のうちかつて三田井に駐屯していた中津隊十五名を斥候に派した。官軍は三田井に堡塁を築いていたが、留守部隊で薩軍が長井村を脱出したことを知らず、哨兵も立てないで道端で休憩し、昼食を口にして笑い声をたて無駄話をしていた。
 辺見らが刀をかざし突入すると、彼らは銃を捨て、八方へ逃走した。薩軍はその二人を斬り、輜重(しちょう)倉庫をあらため、おびただしい戦利品を得た。
 そこは官軍運輸出張所で、辺見らは現金二万三千余円、糧米二千五百俵を得た。
 薩軍は八月二十二日に三田井を出発し、七ッ山村を守備していた官軍を攻撃して追い払い、銀鐘(めがね)村、槻木(つきのき)、小林、馬関田(まんくわた)と間道を伝い南進した。
 八月三十一日、午後四時、蒲生(がもう)を薩摩帰還の拠点と定めていた薩軍は、その目的地に到着した。駐屯していた官軍は戦死者二十余名、捕虜八名を残し退却していった。
 横川、蒲生の二日間にわたる遭遇戦は、予想をうわまわる激戦で、官軍四十二名、薩軍二十余名の死傷者を出した。

 薩軍が鹿児島へむかう十数日の間、官軍は新撰旅団と加治木、帖佐駐屯軍を薩軍討伐にむかわせた。三好少将と参謀長の野津道貫(みちつら)大佐は将兵とともに東海丸に乗りこみ加治木を出発して九月一日午前四時に鹿児島に到着した。
 鹿児島防衛にあたっていた新撰旅団の一個大隊を吉野に向け、第二旅団は吉田街道を南下してくる薩軍にあたらせようとして午前五時に出発させた。
 薩軍の本隊と先鋒隊は午前十時に吉野に到着して、鹿児島攻撃の要領について打ちあわせをはじめるうち、官軍が背後に迫ってきた。
 河野主一郎の指揮する本隊が官軍を迎撃し、先鋒隊は辺見が指揮して鹿児島へむかった。
 沿道に人垣をつらねて迎える住民はよろこんで拍手哄笑(こうしょう)し、跳びはねてよろこぶ。
「巨眼(うど)さあがお帰りじゃ。鹿児島(かごっま)の夜は明けた」
 二月十五日に鹿児島を離れた一万三千の薩軍は、わずか三百余人となり、陽に灼(や)けた顔はやつれはて、見分けもつかない浮浪者のようないでたちで帰ってきた。
 隆盛は出迎えた住民たちに取り巻かれ、駕籠で地蔵馬場の黒田邸に入り、昼食をとった。隆盛たちは座敷へ撃ちこまれる銃撃を気にかけず、平然と酒盃を干した。
 食事を終えた薩軍は、住民の案内で城山、私学校、海岸の米倉(こめぐら)に集結している官軍を襲撃にむかった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府