連載
「まぼろしの維新」
第十七章 城山へ 津本 陽 Yo Tsumoto

 山野田一輔(いちすけ)、仁礼(にれ)仲格らが十名ほどの兵とともに、私学校の東門に忍び寄り校内を見ると、一個大隊ほどの官軍が、小銃三挺を組み地面に立てる叉銃(さじゅう)をして、校庭を埋めて休憩している。
 山野田らは敵兵が多数に過ぎるので、斬りこむのをためらい、うかがううち、辺見十郎太がきて、小銃を放ち抜刀して喊声をあげて斬りこむ。
 校庭を埋めつくした官軍は、辺見ら十数人に斬りたてられると応戦する者は一人もなく、西門から逃げようとしたが、押しあって外へ出られず、三メートル余の石垣に這い登り、飛び下りて米倉へ逃げた。
 薩軍の白刃のもとに倒れた官兵は二十四人であった。この日、薩軍は城山、米倉の官軍と戦い、二十数人が死傷した。それまで阿修羅のように連日奮闘してきた辺見十郎太は右額に銃弾を受け、重傷を負った。
 鹿児島の住民は薩軍が戻ってきたので、それまで官軍の掠奪暴行を堪えてきた憤懣を爆発させた。
 人足といわず婦女子といわず、官軍とみれば兵隊であろうと役人であろうとかまわず棍棒、天秤棒で撲り殺し、弾薬を奪い取って薩軍に献じた。市中には殺された官兵の死屍が累々と積み重なる、悲惨な情景が展開した。
 田原坂の戦闘で重傷を負い、帰郷療養していた砲隊半隊長讃良(さわら)清蔵は、自宅に潜伏していたが、薩軍が戻ってきたと聞くと妻に告げた。
「このたびのこつは、もし勝ち戦であれば俺(おい)もこんまま隠れ住んでよかじゃろが、敗亡する日は近かろう。俺は義をたて、西郷先生と死生をともにしたか」
 彼は幼い娘の手をひき実父に会い養育を依頼したあと、城山の薩軍本営へ出向いて隆盛に会い、生死をともにすると申し出た。 
 隆盛は讃良の覚悟を思いとどまらせようともせず「あいがたか」とうけいれた。讃良は九月二十四日の最後の戦闘で、隆盛に従い戦死した。隆盛とともに死ぬ覚悟を決めた壮士は城山の堡塁で、故郷の土に帰るのをよろこんでいた。
 桐野利秋は鹿児島に戻ったのち、県内士族の募兵をおこない、官軍を撃退したのち長崎へ攻め入り本営を置き、態勢をたてなおそうと考えていた。隆盛は人吉まで後退してきたとき、熊本協同隊代表崎村常雄からすすめられた。
「私は長崎に駐在する英、米、仏、蘭の領事らと、いつでも会えますばい。あれらあと打ちあわせ、その援助を得て九州を独立国といたしもそう」
 隆盛は田舎で狩猟隠棲の生活を続けていたが、世界の形勢を把握する日本の指導者としての政治感覚は衰えておらず、一蹴した。
「九州を外国へ売ることになりかねんごたる、危なか手は使いもはん」
 隆盛を日本の守護者と敬愛しているのは鹿児島人だけではなかった。
 隆盛から解散せよといわれても聞きいれず、鹿児島まで従ってきた党薩諸隊の精鋭たちは、隆盛とともに死ぬためについてきた。
 中津隊隊長として百五十人を率い薩軍に参加した増田宋太郎は、中津藩の渡辺重石丸(いかりまろ)の塾で名をとどろかした英才である。福沢諭吉の再従兄弟(はとこ)で、慶應義塾にも遊学した。中津ではじめて刊行された新聞の主幹もつとめた。新知識に明るい彼は二十八歳の洋々たる前途を期待できる青年であった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
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第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府