連載
「まぼろしの維新」
第十七章 城山へ 津本 陽 Yo Tsumoto

 党薩諸隊は長井村脱出戦の前日に、ほとんどが解散していたが、生き残った十六人の隊士とともに薩軍に同行して城山まできた。
 隊士たちは城山から逃れ琉球へゆき、新国家をうちたてようといったが、宋太郎は誘いをことわった。
 彼が隊士たちにうちあけた本心は、のちの世に伝えられることになった。
「僕は城山まできたおかげで、はじめて西郷先生の身辺にいて、謦咳(けいがい)に接することができた。一日先生に接すれば、一日の愛が湧きいでてくる。三日先生に接すれば、三日分の愛があふれる。
 親愛の思いは日毎にふえ、立ち去ることはとてもできない。いまは善悪のいずれを問われても、死生を先生とともにするのみであると観念した。
 君らは年若く前途はひらけている。この地を去り故郷に生還し、中津隊の赤心を郷里の人々に語ってほしい」
 九月三日の夜、薩軍が城山本営でひらいた軍議の席で官軍のたてこもる海岸の米倉を襲撃することが、貴島清の提唱により決まった。
 官軍はまだ鹿児島に全兵力を集結させていない。彼らの守備がととのう前に、米倉の敵を撃破して、全市域を完全に制圧しなければ、県内の新規募兵を実現させ、中原に再度進出する機会はめぐってこないというのである。
 桐野は襲撃作戦に同意し、決死隊七十余人を選んだ。振武三番隊長北(ほん)郷万兵衛、中津隊隊長増田宋太郎、福岡県人川庄喜徳の一隊は県庁外側の溝伝いに進む。貴島の一隊は肝付(きもつき)屋敷の溝伝いに米倉へむかうことになった。
 九月四日午前三時、抜刀して米倉の東門、北壁の敵陣へ殺倒した。銃剣をふりかざす官兵をなぎ倒し、発砲する人影には石、瓦を投げつけ、東門の第一塁を突破し、第二塁に襲いかかった。
 水兵、新撰旅団、警視隊、第二旅団の兵が懸命に防戦するなか、貴島らの侵入を知った歩哨が、斬られつつ発砲して急を知らせたので、官軍が大勢駆けつけ狙撃する。
 貴島は奮戦しつつ額を剣で突かれ、背中に銃弾を受け絶命した。
 戦闘の様子は生き残り退却した中津隊軍監矢田宏がつぎのように語っている。
「味方は塁下に迫り、敵弾は闇中に目標を定めかねて空に発砲する。われらは刀で銃を打ちはらい、銃を奪いとって敵を撃つ。
 官兵は壁にむかい霰(あられ)のように銃弾を放ち、味方は瓦礫を投げる。剣尖銃声が闇中に満ち、うろたえ騒ぐ官軍の悲鳴が響く。
 このとき貴島清が叫んだ。
『進んで死ぬか、逃げて死ぬか、どうせ死ぬ。お前(は)んらなんで死地に飛び入らぬか』
 貴島は単身で斬りこみ第一塁を突破し、第二塁に身を投じそれをも圧倒した。彼の活躍は、獅子が一声吼えて百獣が震裂するさまを眼前にするようであった。
 余が銃弾が乱れ飛ぶなかを走り、第二塁へ飛びこもうとしたとき、銃弾が余の腿をかすめたように感じたが、体はたちまち塁の下に落ち、立とうとしても立てない。
 倒れたまま手さぐりでたしかめると、腿のあたりに血が噴きだしているのを知った。
 余の傍の塁下に倒れている者の剣尖が手に触れた。このとき月が桜島のうえに昇り、月光が辺りを照らしたので、倒れた者の刀をあらためたところ、銀鞘の剣であった。
 それは中津隊隊長増田宋太郎の剣である。余は倒れている彼に這い寄り、くりかえし呼びおこしたが、ついに何の反応もなかった。
 余は増田が戦死したと腸(はらわた)が九回捻じれるような無限の悲愴な思いにうたれていたが、しばらくしてようやく立ちあがり、第一塁の下に退却した。そこで薩軍の将に会い、病院へ送られたのである」



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府