連載
「まぼろしの維新」
第十七章 城山へ 津本 陽 Yo Tsumoto

 薩軍が米倉襲撃戦に失敗してのち、鹿児島の戦況は膠着(こうちゃく)状態となった。官軍各旅団はあいついで市中に侵入し、城山の薩軍を急攻せず、長期包囲作戦によって潰滅させようとした。
 城山包囲の要害は高い堡塁、深い隧道(すいどう)をつらね、迅速な行動をとれるよう築造し、日夜薩軍陣地にむかい銃砲撃をくりかえし、一日あたりの砲撃回数が、七、八百に達することはめずらしくなかった。
 市中に駐屯する六個旅団の防衛線は、つぎのように定められていた。
 第一旅団
  水上(みずかみ)峠、原良(はらら)小野、甲突川右岸西田、常盤(ときわ)
 第二旅団
  伊敷、丸岡、上ノ原、浄光明寺附近
 第三旅団
  天神馬場、千石馬場、中福良、高見馬場
 第四旅団
  多賀山、鳥越坂、桂山、韃靼冬冬(たんたとう)
 別働第一旅団
  田上(たがみ)より荒田
 新撰旅団
  米倉、諏訪馬場
 このほか各郡村に警視隊を配置
 薩軍は県内の募兵は官軍の警備が厳しく、応じる者がすくなかったので、全軍二百九十三名を九小隊として、岩崎谷を根拠地と定め、すべての将兵の名簿が配置場所ごとに西郷隆盛の自筆で記されていた。
 この兵数のほかに、西郷隆盛以下桐野利秋、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太、野村忍介の諸将と彼らの身辺に侍する軍夫徒卒ら百余人がいたが、しだいに数を減らして陥落のときは非戦闘員をふくめ三百五十余名となっていた。
 装備している大砲は四斤半砲六門、臼砲九門を官軍から鹵獲(ろかく)していたが、砲弾は一発もなくなっていた。小銃は全隊で百五十挺で、官軍と銃撃戦を交せるだけの銃弾はなかった。
 西郷隆盛は九月六日から九日まで野村某宅の洞穴を借りていた。十日から十二日までは馬乗馬場の鹿柴(ろくさい)に米粟の俵を積んで暮らし、十三日から十九日まで、野村宅の洞穴に戻り、十九日に洞穴をもうひとつ掘り、そこに住んだ。
 洞穴の前の家屋には蒲生彦四郎の指揮する狙撃隊士らが、隆盛を護衛していた。だが岩崎谷への官軍の砲撃が激しくなるばかりで、一日七百発を超えるので、彼らも家屋にいたたまれなくなり、洞穴を掘って退避せざるを得なくなったのである。
 弾薬製造所は桂久武、新納軍八らが管理していたが、弾薬の材料が尽きてしまったので、岩崎谷一帯の民家から錫器などを探し出したが、それも見当らなくなったので敵の銃砲弾を拾い集め銃弾を製造した。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府