連載
「まぼろしの維新」
第十七章 城山へ 津本 陽 Yo Tsumoto

 別府九郎は同意して、さきに捕えておいた捕虜細井済を脱走させ、薩軍の使者として
官軍に交渉させることとした。坂田は説いた。
「わが国今後の情勢を思わば、わが国が清国と戦い威武をあげる時は遠い先のことではな
か。そのときに至り西郷隆盛どんをはじめ桐野利秋、村田新八らは、たやすく得らるっ人
物ではなかじゃろ。
 その者らの敗北して一命を失うは実に惜しむべきことでなかか。朝廷に俺が願い出て、
非常の寛典によって、西郷、桐野らの罪を許されりゃ、こんうえのよろこびはなかじゃろ」
 坂田は細井を脱走させ、官軍への密使として送ったつもりであったが、細井は幾日待っても帰ってこなかった。
 坂田は自ら敵陣へおもむき、隆盛助命を嘆願しようとしたが、桐野に見咎められついに断念した。
 辺見十郎太は病院で負傷の治療を受けていたが、官軍の砲撃が劇(はげ)しくなってくるばかりであったので洞窟に避難していた。だがついに大勢は決してもはや戦死を待つばかりであると知り、九月十八日、手紙を書いて河野主一郎を病床へ呼び寄せ、告げた。
「わが軍の進退は事ここに至ったもんそ。不幸にして俺の怪我もこげんこつで、ようごわはん。いまは体の自由がきかんままこん塁を守り、敵の攻撃を待って倒るっのみじゃ。
 死ぬはもとより承知しゆうがな。惜しむこつもなかごわす。けど、巨眼(西郷)さあは国家の柱石、曠古(こうこ)の英傑じゃ。先生を俺とともに弾雨の下に倒れしむっは、国家のために痛墳すべき至りじゃごわはんか。
 ここに至って先生を救ふ策がなかじゃろかと、思うばっかりじゃ」
 河野は答えた。
「いまや弾糧ともに尽き、賊名を受け永遠の恨みを受け、死を待つばかりでごあんそ。もとよりわが党が義挙に踏みきったのは、王政復古の元勲、国家柱石の忠臣たる西郷先生を暗殺せんとする、奸佞(かんねい)の奴原(やつばら)の罪を問うにござした。
 それを上京の途中にして鎮台兵らにさえぎられ、いまに至りしにござした。
 思わばわが党の者が弾丸に倒れ刀下に死んせえな、地下に眼をつむれる所がありもはんぞ。
 それはまだゆくべき天が定まらんためか。しかし先生の生死は国家の興廃に関しもす。
 僕は不肖なりといえども敵の軍門に出向き、川村純義に会い事理の曲直を話しあい、そんのちに死に就きもんそ」
 十九日の夜明けまえ、官軍が私学校を激しく攻撃した。
 河野はこのとき数名の部下を率い、応援に駆けつけ官軍を撃退した。
 このとき河野はすでに決心していたので、堡塁に帰る途中、桐野のいる本営に立ち寄ったが、桐野は体調を崩し睡っていると聞き、起さずに戻った。
 彼は村田新八の軍営をたずね、辺見と相談した内容を陳(の)べた。村田はいった。
「俺が先に飯野におったとき、おなじこつを桐野、池上へ相談したと。あん二人はそん相談を聞かざったので、行われずについに終りもした。
 いまもし足下らが信ずるところあれば、あの者らに相談せずやっがよかんそ」
 村田もまた、隆盛をこのまま彼岸へ立ち去らせるのを、心残りに思っているようであった。



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〈プロフィール〉
津本 陽(つもと・よう)
1929年3月23日和歌山市生まれ。東北大学法学部卒業。78年『深重の海』で第79回直木賞を受賞。95年『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章を受章。05年菊池寛賞を受賞。主な著書に『明治撃剣会』『薩南示現流』『黄金の天馬』『宮本武蔵』『下天は夢か』など多数。
Back number
第十七章 城山へ
第十六章 沈む陽(ひ)
第十五章 日向路の雨
第十四章 敗走
第十三章 手負い獅子
第十二章 田原坂
第十一章 露の命
第十章 血戦
第九章 出陣
第八章 雷雲迫る
第七章 炎の気配
第六章 士魂とは
第五章 隆盛辞職
第四章 風浪のとき
第三章 怨恨の道程
第二章 恩讐の道程
第一章 新政府